(・・・・・・なんでこんな気持ちになんの?)

 乾が自分の前に現れたり桜乃の名を出したりする度に、リョーマの心は酷くかき回された。
 怒り?嫉妬?悲しさ?寂しさ?困惑?喜び?
 感情たちが一気に渦を巻いてしまうので、よく分からなくなってしまうのだ。

(あー!)

 ループしそうになる思考を停止させようと、水浴びした後の猫の様に頭を振る。
 リョーマの寝不足気味な頭は少し痛みを訴えたが、気分は変えられた。
 そのことに安堵して顔を上げると、前方、暗い廊下の右端に、三つ編みを僅かに揺らしながら立っている少女を発見した。

(乾先輩と話してたんじゃ・・・?)

 リョーマは乾のことを、策士だが、あるいは策士だからこそ嘘などつかない人だと認識していた。
 また、なんとなく、女子を一人で帰したりはしない人だとも。
 昨日(ついでに今朝も)、乾は放課後桜乃と話をすると言っていた。
 そして今、目の前には一人で佇んでいる彼女がいる。
 つまり、乾は彼女を放って帰ったということで。

 彼女がこんな暗い学校に一人でいるという事実が、リョーマの中に怒りを静かに湧き上がらせる。
 その衝動にのせ、会ってどうするという計画もなにもないまま、リョーマはずんずんと彼女に近付いていく。
 しかし、彼女に近付いていくリョーマの方へ、今まで微動だにしていなかった桜乃も突然走りだしてしまう。

 どん、という音の後に胸に暖かさを感じて、リョーマは激突されたことよりもそっちに驚いた。

「ご、ごめ・・・っ。・・・・・・っ!!」

 激突した瞬間に全身をびくりと震わせながら顔を上に上げた桜乃は、素早く謝罪の言葉を口にしようとした。
 けれどぶつかった相手がリョーマだと知ると、青かった顔を更に青くし、二、三歩後退した。
 その態度に機嫌を更に悪くしたリョーマが、不機嫌なことを隠そうともしていない顔で口を開きかける。
 しかしそれよりも先に、桜乃の背後から女生徒のキンキン声が校舎内に響いてきた。

「あー!大人しそうにみえるコの方がオトコ受けするんだもん!やんなっちゃうよねー!」
「じゃあアンタも大人しくすればいいじゃん。」
「ダメダメ。もう遅すぎ。」

 名前も顔も分からない誰かの声に桜乃の体が大きく反応したことで、リョーマは大体の事情を飲み込んだ。
 苛めやすい奴をターゲットにした、憂さ晴らしのためのイジメってヤツかと。

(確かに苛めやすいしね、こいつ。)

 本人が聞いたら凹みそうなことをさらりと心中で呟いて、もう一度桜乃の様子を見てみれば、桜乃は小さな声で誰に対してか分からない謝罪の言葉を呟いていた。
 その姿に、リョーマはもしかしたらこれまでこういうことを何度もされたのかもしれないと思い、どうしようかと思案した。
 しかしリョーマが思案にふけっている間に、小さく震えながら何度も謝罪の言葉を呟いていた桜乃はなんとか平常心を取り戻した。
 そうかと思うとリョーマの様子をそっと窺い、横を通り抜けようと体を素早く動かした。



「・・・逃げるの?」


 通り抜け終える寸前に、リョーマの手が桜乃の腕を掴んだ。
 そのことに桜乃はとても驚いたが、リョーマ本人も驚いていた。
 ただ反射的に、動くものを掴んだだけだったからだ。
 その幸運にちょっとだけ感謝しつつ、リョーマは静かな声で呟く。

 逃げるの、と。

 一方、あの状態で引き止められるとは思っていなかった彼女は、逃げようと思っていたことも忘れただただ驚いていた。
 緊張からか、逃げようとしていたことがばれたことが怖いのか、体は小刻みに震えている。
 けれど、不思議と視線はリョーマから外さなかった。

 リョーマも視線を外さない。


「逃げよっか。」


 二人にとっては長い沈黙を破ったのは、リョーマのそんな一言だった。




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