静まりかえった薄暗い廊下を、リョーマは独りで歩いていた。
何か明確な目的があるわけではなく、彼にあるのは、あまり帰宅したくないという気持ちと、ここにいれば何かが掴めるかもという淡い期待だった。 (ああ、またか。) 歩いているうちに、頭が勝手に昨日の図書館でのやり取りを思い出してしまい、リョーマは壁に体を預けた。 実は、今日だけでも片手では足りないくらいあの時の会話を思い出しているのだが、乾の言葉は一向に腑に落ちてこなかった。 昨日の乾の言葉でパズルを完成させようとしてはいるのだが、やはりピースが足りないらしく、リョーマには乾が何を思って行動しているのかがさっぱり分からなかった。 うんざりした表情で、リョーマが溜息を付く。 (あのセンパイの言いたいことが理解できないと、動きようがない。) 乾がどんな考えで自分に会いにきて、どんな考えからあの言葉を投げかけて、そして、最終的に自分をどう動かしたいのか。 それが分かればあの余裕面に泡を吹かせることも可能だろう、といささか黒いことまで考えつつ、リョーマは脳に残っている昨日の会話を再びじっくりと聞きなおしてみた。 (・・・そういや、乾センパイはサクノとどういう関係なんだ?) 自分のセンパイと妹の関係を初めて疑問に思ったことをきっかけにし、リョーマの思考は段々と桜乃へとシフトチェンジしていってしまう。 (・・・あいつ、なんで学校ではあんな態度なんだろ。) 自分のことは完全に棚に上げている疑問だが、リョーマとしては乾のことがからむ以前から気になっていたことだ。 だからこの際ちゃんと考えてみようと思い、リョーマは桜乃に関する記憶を脳から引っ張り出し、比較してみることにした。 そしてリョーマは、あることに気付く。 基本的に桜乃は、両親が俺達は家族だと言っていることもあるのか、怯えている節はあるがリョーマとも仲良くしようとしている。 ただしそれは家にいる時だけであり、学校にいる時は桜乃の態度がよそよそしいということに。 (『越前リョーマ』と『竜崎桜乃』だから?) リョーマは今まで気にすらしていなかった点に改めて意識を向け、それが原因である可能性が高いと思った。 桜乃を入学させる時、さて苗字はどうするという話になった。 青春学園は南次郎と倫子の母校であったし、校長が桜乃の事情は知っていたこともあり、桜乃はまだ法的に越前家の家族になっていないが、『越前桜乃』として生徒になることも出来ると言われたからだ。 しかし桜乃は、普段どこに隠しているのかと考えてしまうほどの必死さで苗字を変えたくないと主張した。 リョーマにとっては苗字などどうでもいいことだったし、南次郎達は始めから桜乃の意思を尊重することを前提としていたので、桜乃は彼女の主張通り『竜崎桜乃』のままで学校に入学した。 その結果、この学校にいる人達は、校長を筆頭とした一部の教師を除き、リョーマと桜乃は赤の他人だと思っている。 また、リョーマは自分達が兄妹だということを誰にも喋ってはいなかった。 このことに対し、誰にも聞かれていないのに「あいつとは兄妹なんす」なんてベラベラ喋るのはただの気持ち悪い人だし、「あなた達兄妹なの?」などと聞きにくる人物が一人としていなかったから兄妹と言わなかっただけ、というのがリョーマの言い分である。 つまりリョーマは、もし誰かが「お前達は兄妹か?」と聞いてきたならそうだと答えるつもりでいるということだ。 ――― けれど、桜乃は? リョーマは今始めて、桜乃が自分とは違う人間だと気付いたかのように、「越前と兄妹なのか」と聞かれた時桜乃がどう答えるのか不安になった。 家での桜乃がリョーマとの距離を縮めようと頑張っているからだろうか。 「兄妹ではない」と答える桜乃の姿なんて、今まで一度も想像したことがなかった。 (サクノは俺と兄妹ってこと、バラしたくないのかもしれない。) 今日まで誰にも兄妹なのかと質問されなかった理由を考えてみれば、桜乃も兄妹であることを学校の誰にも言っていないとするのが自然であろう。 学校での態度を踏まえれば、そうとしか思えなかった。 それがもし、リョーマと兄妹であることが嫌だからだとするならば。 (でもそれじゃ、初めてここに来た時俺に見せた笑顔は、ナニ。) あの、胸がつまってしまうほどキレイな笑顔は。 分からないから話したいと思っていても、桜乃と話すこと自体最近は一度もしていない。 今にも殺されそうな人が自分を殺そうとしている殺人鬼に向けるような目で見られてしまったら誰だって近付くのを躊躇うだろう。 その上、リョーマが最近桜乃にどういう態度をとったらいいのか前以上に分からなくなってしまっているため、これといった行動を起こせずにいるのだった。 (・・・それもこれも、全部乾先輩のせいだよね。) 今朝新たに追加された乾先輩からの問いがタイミングよく浮かび上がってきて、リョーマを更に追い詰める。 『まだ気付いてないのかい?』 ――― 気付いてないって、何に? 七 + 戻る + 九 |