「リョーマ君傘ないの?」
玄関で一向に傘を取り出す気配を見せないオレに竜崎がキョトンとした顔を向けた。

「今朝遅刻ギリギリで天気予報聞き忘れた」
おかげで走らされるし。思い出してげんなりしていると隣でクスクスと笑う声がする。

「リョーマ君らしいね」

・・・・・・それ誉めてんの?
控え目に笑ってはいるけど全然笑うとこじゃないから、そこ。

「あの、良かったら私の傘に入る?風邪引くといけないし・・・」

傘の柄の部分をギュッと掴んで言ってくる。
ちょっと、それを期待してもいたんだけど。

「いいの?」
「うん。あの、良かったらなんだけどね」

良いことするんだからもうちょっと自信持てばいいのに、竜崎は相変わらず控え目で。

「よろしく」

それだけ言って彼女の手から傘を受け取って差し出す。
「いいよ、持つよ」と慌てて傘を奪おうとする彼女を「背、オレの方が高いから」と制して。
少し歩いてついてこない竜崎に振り替えれば、なにやらぽかんとしていた。

「?行かないわけ?」
「あ、ごめん」

やっぱり慌てた様子で傘に入り込む彼女。
校門を出てオレの家の方向へ向かう。
傘は竜崎のだから、オレが先に家に帰る方がいいだろうという事になった。
とは言ってもとりあえず家に帰ってから傘取って竜崎を家に送るつもりではあるんだけどね。

「そうだよねぇ」

突然なんの前触れもなく竜崎の口からそんな言葉が漏れる。

「なに一人で考えてんの?」
「さっきのリョーマ君の言葉。私たち二年前は同じ高さだったんだなぁって思って」

ああ、そのこと。
当たり前。成長期だし、それに

「認めたくないけど乾先輩のおかげかな」
「牛乳一日三本!効き目あったんだね。・・・ねぇリョーマ君」
「?」
「背高いとどんな感じ?今まで見てきた世界とはどっか違うのかなぁって」

憂いを含んだ声音でポロリと言葉が漏れ聞こえる。
竜崎が、なんでそんなことを聞いてくるのかは分からないけど、
今始めて意識するような気がする。
そうか、今までとはどこか違うんだ。
それは現実的に目で見る世界もあるけれど、なにか、それと共になにかが違う気がして

「見晴らしが良くなった」
「うっ・・・まあ、そうだよね」

明らかに望んでいた系統とは離れた答えを出した俺に落胆する。

「それと」

意地の悪い笑みを浮かべた俺に竜崎がきょとんと顔を向ける。


「あんたが、見下ろせるようになった」


更に微笑んでみせる。
自分でも薄気味悪いと思えるほど。

「〜〜〜〜っもう、リョーマ君のバカ。それってあんまり良いことじゃなく聞こえるんですけど」
「そう?」

ちょっと恨めしそうにこちらを見上げる彼女。
いつのまにか出来た竜崎との身長差。
背があんたよりも高いおかげで見上げてくるあんたが見えるようになった。
本当はそれが少し気に入っているんだけど。
ふっと、今度は本当に笑って空を仰いだ。

「背が高いのなんかテニスに関係ないって今でも思うけど・・・
 だから高くなって良かったと思うね」
「?」

分からないと首を傾げる彼女。
でもオレが話す気配を見せないのを感じ取ると諦めたようだ。
竜崎はしつこく聞き返したりしない。それをこの何年かで知った。
本当に必要だと思うことはキチンと聞いてくるけど、
オレがなんとなく話したくないことにはあえて触れてこない。
鈍いと思ったらそうでもない。


掴み切れない。


視界を音もなくゆっくりと降りてくる雪が埋める。
真っ白で灰色の空を飾るように降る。

「雪みたいだよね・・・・」

ポツリと口の中だけで呟いた声は竜崎にはハッキリとは聞こえなかったようだ。
それでも「雪」という単語は聞き取れたらしく、オレと同様に空を仰ぐ。

「雪、綺麗だよね」

嬉しそうな、楽しそうなうっとりとした声。
無言で同意して、掌をそっと前に掲げた。
雪はやはり音もなく舞い降りて、白色からゆっくりと透明に溶けた。


〃儚い・・・〃


そんな言葉が頭を過る。

「溶けちゃったね」

無邪気に微笑む竜崎。
オレが今何を思ってるかなんてまるで分かってないみたいだ。

「雪が降るとすごく静かになっちゃうよね」
自分も手を掲げて雪を掴もうと懸命に腕を伸ばす。

「辺りの音を吸収して、世界が静かになるの。私好きだな」
やっと一つ掴めて掌で包み込む。

「回りの喧騒が聞こえなくなって、自分の世界にいるみたい」

それがとても寂しそうに聞こえて・・・・



〃儚い〃

『雪みたい』



思った瞬間腕は伸びていた。
雪を包んでいる掌を更に手で包み込んだ。
支えを失った傘が重力に従ってトンっと地面に落ちる。

「りょ、リョーマ君!」

驚いて裏返った声を出している竜崎に、重ねた手に少しだけ力を入れた。


いなくなるかと思った。


声があまりにも儚くて、雪のようだと思ったから。
溶けてしまわないように。
眉根をぎゅっと寄せて、自分の想像の恐怖から耐えるように、オレは声を絞った。

「雪、溶けてるんじゃないの?」
丸い目をオレに向けたまま、竜崎ははっとして頷く。

「うん。溶けてると思うけど。リョーマ君?」
突然のオレの行動の意味を問う。

「オレは雪があんまり好きじゃないかも」

重ねた手は離さないまま。

「なんですぐに溶けるの?全然掴めないじゃん」
「リョーマく・・・」
「あんたに、竜崎に似てる」
「・・・・・」

沈黙が辺りを支配した。
静かな間は雪のせいで更に透明度を増したようだ。
まるで時が止まったかのような錯覚を起こすのに、
舞い落ちる雪自体が時間がゆっくりと進んでいることを証拠付ける。
重ねた手から竜崎の体温が伝わる。この沈黙を埋めるみたいに暖かな感触。
先に口を開いたのは竜崎だった。

「リョーマ君は、雪を掴みたいの?」
しっかりとこっちを見据えてゆっくりと言葉を辿る。


   掴みたいのは雪じゃなくて


「溶けて欲しくないの?」


   溶けて消えてほしくないのは雪なんかじゃなくて


「リョーマ君は雪が私みたいだから嫌いなの?」
哀しさを滲ませた声。


   竜崎みたいだから嫌いなんじゃなくて
   嫌いなんじゃなくて


「リョーマ君、言ってることよくわかんないよ。矛盾してる」

矛盾なんてしてない。
オレの中でそれは一つに繋がってる。あんたって存在に。

「嫌い・・・なの?」

震えている身体。
ぐっと重ねた手を引き寄せた。
ただ驚いてされるがままになっている竜崎の身体をギュッと閉じ込めた。

「・・・リョーマ・・く・・」

柔らかそうな口から漏れる声や吐息ごと奪ってしまいたい衝動をぐっと堪える。
何を不安がってるんだろう。自分でも分からないけれど、安心したい。
今ここに竜崎がいることを確信したい。
この腕の中には確かに竜崎がいるんだ。
彼女の手の中の雪のように掴んでいるのにいなくなってしまうことはないんだ。
自分に言い聞かせて

「嫌いじゃ、ない・・・」
「・・・・・雪が・・・?」
「・・・竜崎が」

肩を抱く手から心の熱さが伝わればいい。
あんたのこと、成長すると同時に段々考えたことがある。


「消えてほしくない」


   存在とか


「溶けたりしないでよ」


   笑顔とか


「嫌いなんかじゃない」


   傍に居て欲しい


「竜崎が・・・・大切な存在だから」

だから自分の傍からいなくなることを考えると恐い。
自分は弱い人間ではないのに・・・。

「リョーマ君」

そっと頬に触れた感触に驚くと、竜崎が両手で覆っていた。
その手つきがまるで壊れ物でも扱うようなもので、とても優しい。

「消えたりしない」
「・・・・」
「消えないよ。私リョーマ君の前から消えたりしないよ」
「りゅー・・ざ・・・」
「私も似てるかもって思ったの。雪が、リョーマ君に」

・・・・・え?オレに似てる?どこが。

「存在とかじゃなくて、私が不安になっちゃって。私にとっての心の距離が雪みたいなの。
 全然届かなくて、儚くて、消えちゃいそうな距離」

心の距離?

「でもね、嬉しいんだ。だってリョーマ君も同じこと考えてたんだって知って。
 二人とも同じこと考えてたって事は心が近いのかなって・・・なんか、自惚れちゃった」
ごめんねって少し笑ってる竜崎。

「それに、今リョーマ君が、元気になる言葉くれたから。
 私今日ずっと雪のこと考えてて元気なかったんだけどね」

驚いているというか、呆気にとられているというか、とにかくぼうっとただ竜崎の顔だけを
見ている俺に彼女は優しく微笑みながら言葉を続ける。

「だから、私も元気にしてあげたい。
 って、私が嬉しくなっただけで別にリョーマ君は元気にならないかもしれないけど」

包まれた頬から暖かな竜崎の体温が伝わってくる。
さっきのオレみたいに心を伝えているのかもしれない。

「リョーマ君が・・・大切だから」

ふんわりと微笑んではにかんだ竜崎はとても綺麗だった。
雪よりも何よりもオレを優しいもので包み込んでくれる。
竜崎の手に自分の手を重ねて、頬から剥がすと甲にそっと口付けた。
目の前で頬がうっすらと染まっていく。
胸の中がとても落ち着いた。
さっきまでの不安感がいつの間にか拭い去られて、暖かいものに満たされている。


愛しい


桜色に染まった頬を今度はこっちが包んでゆっくりと顔を近付けた。




雪のようだと思った。

オレの心の距離は、いつの間にか近付いたみたいだ。

雪を溶かすようなこの暖かな感情。

でも目の前であんたは確かに微笑んでオレのこと見つめてくれてる。

消えることなく。溶けることなく。

そういえば、桜は春の花だよね。

あんたは雪が去った季節でもきっとオレの傍にいるんでしょ・・・?





end