a. 薫風爽やかに


 振り返ったと同時に、彼女が声を発する。
 少し心臓がはねたことを表面に出さないよう注意しながら、彼女と顔を合わせる。
 それから視線で疑問を投げかければ、彼女は首を右横に少し傾けてから、
頭の位置を元に戻した。

「良い匂いがするね。」

 多分さっきと同じ台詞を言った後、彼女は小さく唸りながら背筋を伸ばした。
 振動でふわりと揺れた長い髪を、風がさらに揺らす。

「確かに良い香りだね。」
「でしょう?」

 嬉しそうに弾ませた声を出した彼女の顔は綺麗。
 風に合わせて舞う彼女の茶色の髪と、土一面に広がっている緑も綺麗。

(でも、なんか寂しいかな・・・。)

 そのふたつが、彼女を近寄りがたいくらい綺麗なものへと変えてしまったようで、
上へと上っていた僕の気持ちは急下降した。


「・・・ね、用ちゃん。これはきっと、夏の匂いだよね。」

 彼女の声をきっかけにして、僕は意識を現実へと戻した。
 同時に、再び見惚れてしまっていたことに気付いたけれど、
彼女の台詞は辛うじて聞き取れていたので今度は焦らず対応する。

「また夏がくるんだね。」

 含んだ意味に気付いてくれたらしく、彼女は笑みを更に濃くした。

(そう、それ。)

 その笑顔。

 いつも僕だけに見せてくれる笑顔が、彼女が戻ってきたと思わせてくれて、
とたんに安心する。

「この季節を、また一緒に過ごせるんだね。」
「うん、そうだね。」


 青葉の匂いに混じった彼女の匂いが、草原に軽やかに吹く。


 来年だけじゃなく、再来年も、そのまた来年も。

 ずーっとこの風が吹きますように。






思っていたより爽やかな話になりました。

※ 薫風(くんぷう)・・・
南風、または青葉の香りを吹きおくる初夏の風。青嵐とも言う。
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b. 仄闇の小さなけもの


「ご苦労だったな、用。」
「あ、起きてたの?」

 びっくりー等と言ってはいるが、驚いているとは思えない顔をしている用三郎は、
少し先にある木の根元に身を寄せている泰之丞に問うた。
 おどけてみせているだけだということに気付いているのか、
台詞と態度が違うことは気にも留めず、泰之丞は先ほどの問いに答える。

「ああ。あれ程の殺気では流石に起きる。」
「そんなこと言ったら、心はどうなるのさ?」
「あやつは鈍いからな。」

 殺気にも、女人の心にも。

 ついでとばかりに付け足された言葉に、用三郎は深く同意するばかりか、
これも心がモテない原因のひとつだよねなどと、
心ノ介が起きていたら深く傷ついていたであろう一言をさらりと付け足した。

「ま、煩い心が起きたら紗依まで起きそうだし、好都合といえば好都合だけど。」
「・・・好都合、か。」

 心ノ介が聞いていたら烈火のごとく怒りだすであろう台詞を耳にし、
泰之丞は控えめに笑い声を上げた。
 それが気に食わないのか、笑われた用三郎の表情が僅かにむっとしたものになる。
 原因である泰之丞は、いまだ笑顔のままだ。

「恋人になってもあまり態度は変わっていないと思っていたのだが。」

 一旦言葉を切り、用三郎へと泰之丞は優しい眼差しを送る。

「やはり、変わっていたようだな。」

 追加された、まるで思春期の娘を守っている父親のようだぞ、という言葉は無視して、
用三郎は泰之丞のいる場所から少しばかり離れている場所で眠っている少女に近付いた。

「・・・紗依は優しいから。だから、ああいうシーンはあまり見せたくない。
 害を与えるモノに近づけたく、ない。」


 例えそれが、自身であっても。



 用三郎が、僅かばかり震えている手でゆるゆると紗依の頬に触れる。
 そして、触れた瞬間に手の震えが治まったことを自覚する。

 自覚して、しまったから。


(・・・けものに、なってしまうかもしれない。)


 そうなってしまったら、紗依を食べつくしてしまうかもしれない。

 それが、それだけが恐ろしい。


(ねぇ、紗依。)

 そうなる前に。

 完全な闇になってしまう前に。

 君のもつ光で僕を侵食して欲しい。


 そうしたら、きっと大丈夫だから。






用ちゃんの謎って、結局全然解明されてませんよね。
だからなのか、この二人は他のカップルより
恋人同士として不完全だなという気持ちが強いです。

※ 仄闇(ほのやみ)・・・
ほのかな闇。薄暗い、くらいのニュアンスで。(お題製作者、海月様の造語だそうです。)
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1. 二人だけが使える呼び方


「で、結局呼び方変えなかったのかよ。」
「うん。」

 布団の上に寝転びながら、軽い調子で用三郎がそう答える。
 その様子に怒ったのか、答えに納得がいかないのか、はたまたその両方なのか、
心ノ介が次に用三郎に向けた声は荒かった。

「なんだよなんなんだよこの展開はよー!
 ひょっとして俺って邪険に扱われ損なんじゃねぇ?!」
「なんなのだ?その、邪険に扱われ損というのは?」
「うっせーなー!感覚で分かるだろそんなものー!」

 用三郎と心ノ介の会話に興味を持ったのか、横から質問を飛ばしてきた泰之丞に、
心ノ介が少しもテンションを緩めずに返答する。
 その様を第三者の様に見ながら、用三郎が泰之丞の質問に対する答えを口にする。

「心が僕と紗依のラブラブタイムを邪魔しただけだよ。」
「ちょ・・・!ちょっと待てよ!その言い方だと俺が一方的に悪いみたいじゃねぇか!」
「心が悪いんだよ。」
「おいおいおい!あんだけ俺に言葉の暴力振るっといてまだ足りねぇのかよ?!」
「足りないに決まってるだろ。」
「あのなぁ・・・!」
「心だって、愛しい彼女とのラブラブな時間を邪魔されたら怒るだろ。
 あ、でも心は彼女出来たことがなかったっけ。ごっめーん。」
「ぐさっ! よ、用、てめぇなぁ・・・!」

 用三郎の人を馬鹿にするような言い方に、
よく言えば素直、悪く言えば単純な心ノ介が当然のように突っかかっていき、
泰之丞からの質問に答えることを放棄し、言い争いを再開してしまう。
 このまま待っていたら明日になってしまうと判断した泰之丞は、
明確な答えを聞くことを止め、二人から離れたところに移動した。
 用と紗依のラブラブタイムになんらかの理由で心ノ介がたまたま乱入してしまったことが
事の発端であろうと、彼なりに答えを出していることも一因だろう。
 そうこうしている間に、これだから心はモテないんだよ、
という心ノ介を深く傷つける台詞でもって、泰之丞の予想より五時間半ほど早く、
二人の会話は途切れた。
 これにて言い争いは一応終了だなと、泰之丞は思った。
 一応とつけたのは、心ノ介がまだ用三郎と争う姿勢を崩していないからである。
 そして、泰之丞の予想通り、少しの沈黙がおとずれた後、
心ノ介が最後の抵抗とばかりに覇気のない声でぽつりと呟やいた。

「・・・怒るのも分かるような気がしないでもないけどよ、結局呼び方変えなかったんだろ?
 そんな怒ることねぇじゃん。」
「ていうか、やっぱり聞き耳立ててたわけ?」
「うぐ・・・っ!」

 心ノ介が少しでも自分の助けになればとの想いで発したのであろう言葉は、
彼を更に窮地に追い込むきっかけになってしまった。
 心ノ介は周りに目配せして救いを求めるが、
この部屋には彼をフォローしてくれる人物などいなく、無視されてしまう。

「なんだよー!友達甲斐ねぇ奴らばっかりだなー!」
「拙者は主と友になった覚えなどない。」

 沈黙に耐えられなくなったのか、心が用三郎以外の人間に向かって叫ぶと、
部屋の隅で傍観していた一刀斎がそれを一刀両断した。
 それからは、いつものように二人の喧嘩が勃発する展開しかない。
 心ノ介にとって、本日二回目の言い争いである。

 それを一線引いた所で見ながら、用三郎がぽつりと呟く。

「・・・特別な呼び方なんて考えなくてもいいってことに気がついただけだよ。」


 特別な気持ちを込めて呼び合ったなら、他の誰と同じ呼び方で彼女を呼ぼうとも、
それは、二人だけが使える呼び方なのだと。


「ん?何か言ったか用?」

 やや遅れて問いかけてきた泰之丞に、用三郎はにっこりと笑いかけた。


「別にっ。」






心さんは何事においてもタイミングが悪い気がします。
そして更に、自分で墓穴を掘ると。(笑)



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