手元のホースから勢い良く流れ出る水を見ながら、竜崎桜乃は感嘆の息を吐いた。
透明な冷たい水は、宙に鮮やかな虹を描いている。


「キレイ………」


ふふっと小さく笑って、桜乃は前方に聳える大きな洋館を見つめる。
桜乃が修業に来てから気付けばすでに二週間程経っていた。
メイドなのだと気負っていた部分もすっかり薄れ始め、その仕事内容にも、
慣れたと言うよりは呆れはてて、そういうものだと割り切ることにしていた。

越前家では花嫁修業にやってきた貴族の娘を無下に扱うことはしない。
それはとても有り難いことだった。
その分、桜乃も本来の目的を果たしやすい。
朋香ともとても仲良くなれたし、最近ではこの屋敷に来て良かったという
朋香の言葉を痛感していた。



しかし、一部を除いては。



「やっぱりまだ慣れないな」



その鋭い瞳を思い出して、桜乃は思わず身震いした。
この屋敷の主、越前南次郎の一人息子、越前リョーマ。
初日の出会い以来数える程度しか会ってはいないが、いつも鋭すぎる視線に、
マイナス思考になりがちな自分は圧倒されてばかりだった。
でも、少なくとも自分はそんな剣のような部分以外の彼も知っているのだ。
それだけで、少し心が救われる気がした。


「本当は優しい人なんだって」


自分は、知っている。
それが、とても嬉しい。
微笑みを浮かべて、桜乃はホースを高く掲げる。


「えい」


気合いと共に花壇中に勢い良く振りまいた。








   花嫁の王子様・2『午後の過ごし方』







「うわっ」

悲鳴が聞こえて、思わずホースごとそちらへ向いてしまった。

「ちょ、冷たっ!」
「あ、わ、わ、ごめんなさい〜〜〜」

そのせいで更に被害を被ることになったらしく、桜乃は慌てて水を止めて駆け寄った。

「大丈夫ですか!?」

駆け寄っていく桜乃の顔から血の気がさあっと引いていくのを、草の影にいた被害者は見上げる。

「あ、リョーマくん……じゃないリョーマ様、ごめんなさい〜〜」
「景気良く、やってくれるじゃん竜崎」

被っていた帽子を脱いで、水を含んだ毛先を摘んでみせる。
その憎まれ口に、桜乃はやはり情けなさで顔が歪む。

「タ、タオル持ってきます!」
「タオルならある」

出来ることを必死で探して、少しでも挽回しようとするが、リョーマはそれに対して
いつものように素っ気無く言って、側にあったバックを指さした。
そこからタオルを取り出して頭に被ってひたすら無言で拭いてゆく。
その為に顔が見えず、沈黙も手伝って桜乃は余計に不安を感じた。
とにかく何か話してこの沈黙を埋めたい。

「あの、人がいるなんて全然気付いてなくて、今日は天気が良くて、だから、
 思わず…………不注意でした………」

貴族の娘でも今はメイド、主に対しての不遜な行動には何かしら罰則が決められているはずだ。


(減俸?でも給料なんてないから、お夕飯抜きとか。
 あ、それともなにか大変な仕事を与えられるとか………あ〜もう本当にドジだ)


しゅんとして俯いてしまった桜乃をタオルの影からそっと伺い見て、リョーマは細く息を付いた。

「でも、ま、暑かったし丁度良かったけど」
「………え?」
「別に怒ってない」

そう言って再び拭き出した。

「リョーマくん………」

ちょっとだけ驚いて桜乃は少年を見つめた。

「何?」
「あ、え、何でもないです」

呟いた声を呼びかけと受け取ったリョーマに両手を振って否定して、ふと

「やっぱり何でもなくないかも」
「?」
「あの、ありがとう」
「ん」

怒ってなくて、私が悪いのに丁度いいなんて言ってくれて。
例え本人にフォローしたつもりが塵程もなくても、本当にその通りだけだとしても、
「ありがとう」に素直に頷いてくれただけでも嬉しい気持ちがした。
自然に頬が緩む。

「リョーマくんはここでなにしてるの?」
「俺だって草陰で休むことくらいあるけど」
「そ、そうだよね。でも南次郎さんの手伝いしなくていいの?」
「してた」
「ここで仕事?」

合点がいかなくて小首を傾げる。

「正確には仕事の手伝いじゃない。あれ」

目線で促した先には、無造作に置かれたラケットと、転がった黄色いボール。

「テニス?」

見覚えのあるものに桜乃が反応する。
テニスは貴族の世界ではあまり普及されていない遊びだった。
そもそも貴族界では遊び自体が疎遠だ。
自分たちの商売の邪魔になり、没頭した家は堕落する。
過去からそれを学びとった貴族達は遊びをすることは殆どない。
昔は貴族間の流行りだったテニスも、今では庶民の遊びという方がしっくりくる。

しかし、桜乃も貴族ではあるが、これに関しては馴染みがある。
商売人としてもやり手である祖母、スミレも好んでするスポーツだった。
遊ぶからといって必ず堕落するわけでないのは実証済ではあるが……
それにしても貴族の規模が違う越前家で、親子間にテニスがあるのは不思議な気持ちがした。

「珍しいの?」
「ううん、そうじゃないの。うちのおばあちゃんもするから、テニス自体は珍しくないんだけど……」

ただし、自分に出来るかどうかは別にして。

「ああ、そっか。あんたのおばあちゃんって、ばーさんか」

南次郎とスミレに何かしら繋がりがあるのは知っているので、リョーマとも面識があるのだろう。

「まあ、だろうね。うちの親父にテニス教えたのってあんたのばーさんらしいし」
「………え!?」

弾けたように顔を向ける桜乃にリョーマの方が眉を寄せた。

「って、知らないの?」
「初めて聞いた。そっか、そうなんだぁ」

なんだか嬉しそうに笑う桜乃に、リョーマは見えないように帽子を被り、唇を上げた。

「ねえ、あんたはしないの?テニス」

聞いた途端再びしゅんっと俯いてしまった桜乃に今度はリョーマの方が面食らう。

「したくないわけじゃないんだけど………」
「だけど?」

歯切れの悪い桜乃の先を促す。

「う、運動音痴で………」

つまり、下手っぴなのだ。

「おばあちゃんの見て練習したんだよ。けど、なんか上手く行かなくって」
「ふーん」

うーん、と考え込む彼女を置いて、リョーマは立ち上がる。

「教えてあげようか」

きょとんと目を向ける。





「打ってみてよ」






「…………ええっ!」





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