軽くノックをしてドアを開けると、そこは小さな部屋だった。
とは言っても本当に小さいわけではなく、自分の部屋を見た後だからかも知れないが、
こじんまりとした印象を受けるだけでそれなりに空間がある。
全体的に柔らかい雰囲気を醸し出しているのに桜乃は少しほっとした。

置かれている調度品も可愛らしいものが多く、明らかに年頃の女の子が使っている風だった。
部屋の中央には長方形の木のテーブルが置かれ、囲うように団欒用のソファが置いてある。
テーブルの上にはマーガレットの花が篭に入れて飾られている。


「あの、誰もいませんか?」


見渡しても誰の姿も見えず、呼びかけてみても当然返事はなかった。


「あれ?おかしいなぁ。ここだって聞いたのに」


まさか部屋を間違ったかと危惧していると、右手側のドアが開いた。


「あ、来た来た。あんまり遅いから心配したわ」


活発そうなよく通る声と同時にツインテールにした髪の毛をふわっと揺らしながら少女が入ってくる。
同い年くらいか、背丈もそれほど変わらない。
ということは桜乃同様花嫁修業に来た娘だろう。


「あ、ごめんなさい。迷っちゃって・・・」


申し訳なさそうに話す桜乃を一瞬マジマジと見つめて、次に楽しそうに微笑む。


「いいよ。別に時間決まってるわけでもないし。意外にルーズだから」
「そうなんだぁ」


脱力する桜乃に相手の娘は右手を差し出した。


「私、小坂田朋香。よろしくね」


親しみやすそうな笑みに照れながら自分の手も重ねて


「竜崎桜乃です。こっちこそ、よろしくお願いします。朋香ちゃん」
「朋香でいいよ」
「あ、じゃあ朋ちゃんでいいかな?私も桜乃でいいから」
「うん、じゃあ桜乃だね」

「おやおや、もう随分と打ち解けたみたいだね」


割り込んだ第三者の声は少し癖のある重低音だった。
反対側、左側のドアからたった今入ってきたらしい青年に、桜乃は目を細める。
青年の掛けた眼鏡が光に反射して眩しかったせいだった。
朋香も目を細めて、親しみを込めて声を掛ける。


「乾さん、研究終わったんですか?」
「ああ。たった今完成したところだ。長年の研究の成果がやっと発揮される時が来たよ。
 朋香ちゃんも試してみるかい?」
「全力で遠慮します。大体長年って、昨日籠もったばかりじゃないですか。
 いつもに比べると短いほうなんじゃないですか?」
「・・・・・そうか、まだそれだけしか時間が経ってないのか。もう何日も過ぎた感覚でいたよ。
 ・・・ん?見慣れない娘がいるね」


青年に眼鏡越しに興味深げな視線を投じられて、なんとなく緊張しながら桜乃は頭を下げた。


「あ、は、初めまして竜崎桜乃です」


少し上擦った声が出て内心情けなさで満たされるが、顔を起こせば乾は全く気にしていない
様子だったので、少しだけ複雑な気分に駆られた。


「ああ、聞いてるよ。君が桜乃ちゃんだね。乾貞治です。よろしく。一応君たちの上司だから、
 分からないことがあったらなんでも聞いて」
「はい。・・・あの、聞いてもいいですか?研究って何をされてるのですか?」


言った途端に反応が返ってきても乾は面食らうということもなかった。

この時桜乃にとっては乾は鉄仮面の人だと密やかに心に刻んでいりした。
それがいいのか悪いのかという判断は付かないにしても、時に安心し、
時にやっかいになるだろうことは想像できる。
失敗したときなどはそのポーカーフェイスに言い知れぬ不安を感じるだろうし、そしてまた、
やはり今のように情けなく失敗しても、適当に流してくれるのは有り難く感じるだろう。
と、ぼんやりと思っていたところに乾が何が楽しいのか、それとも企んでいるのか無気味な笑みを
浮べて眼鏡を押し上げる。
むしろこっちが面食らった。


「知りたいかい?」
「はい」
「ふむ、いいだろう。僕は日夜思っていたことがあるんだ。人類の精神、肉体、ありとあらゆるものを
 もっと向上させられないかとね。まあ、そういう類の研究かな」
「・・・は・・ぁ・・」


いまいち要領の得ない返答しか口から出ては来なかった。
しかもそれすら唇に突っかかったような言葉でしかない。

(つまり、どういうことなんだろう・・・??)

もっと分かりやすい、具体的な答えを求めていた桜乃にとってあまりにも取っ掛かりの
見えない乾の言葉に、正直にどういうことか聞いていいのか迷った。
わざとはぐらかしている可能性もある。
いらぬ気遣いをして、困っている桜乃に朋香がこっそりとため息を付く。
それは、深い哀れみの思いだった。


「大体、そんな大層な目的・・・野望を掲げておいて、結局完成させてるものが野菜汁ってところが
 理解できません。まあ、効果はあるみたいだけど・・・」


飲まされた人間の惨状を思いだし、朋香はげんなりした様子で襟元のリボンを探る。


「あの、それで結局乾さんは何の仕事をしているんですか?」


明らかに重要に思えないところで気遣いを見せていた桜乃は、意外にもあっさりと、
失礼にあたるような紙一重の疑問を言ってのけた。


「ん?まあ、主に使用人の仕事管理やスケジュールを組んだり、マネージメントだよ」
「じゃあ、研究はなんなんですか!?仕事ほっぽって没頭するような研究はー!」


と、朋香は渾身の力で、心の中で叫んだ。

現実ではふんわりとした穏やかさで桜乃が「そうなんですか」と微笑んでいるのを見て、
彼女の将来に一抹の不安を抱える。
騙されやすそうな純真無垢がちゃんと報われることを勝手に祈る。

その時、部屋に据えられた内線が鳴って、有り難さを感じながら朋香は受話器を取り上げた。
二三度事務的な用を交わして内線を切ると、桜乃に笑顔を向ける。


「さっそく仕事だよ。初仕事は、リョーマ様のところへお茶を持っていくこと」


人差指をぴんと立てて茶目っ気たっぷりに唇の端を上げてみせた。






     ◇◆◇◆◇





「朋ちゃんの初仕事は何だったの?」


トレイの上にティーセット一式を乗せて、赤い絨毯の上を、細心の注意を払いながら桜乃と朋香は
リョーマの部屋へ続く廊下を歩く。
自分に回ってきた仕事なので朋香は特に何をするわけでもない。
トレイも桜乃が持っているだけで朋香は手ぶらだった。
ただ、方向音痴な桜乃の案内をしてくれているのだ。


「んー、あたしの仕事は確か花を生けることだったと思うわ」


朋香は桜乃より二カ月ばかり前にここに来たのだという。
それなりに慣れたと言っていたが、初めにここに来たときは桜乃同様、贅沢な建物に驚いたそうだ。
今では慣れたと同時に呆れたらしい。


「なんだか初仕事が紅茶を作って持っていくことだなんて、これでいいのかなって思っちゃうの」
「でも、あたし達別に使用人じゃないじゃん。花嫁修業中の貴族の娘なんだから。
 これ終わったら嫁ぐんだし。気に病むことでもないと思うわ」
「そうだよね」


これが終わったら嫁ぐ。
改めて同じ境遇の仲間に言われて現実が足音を立ててやってくるような気がした。

同時に自分の目的を思い出す。
朋香はどう思っているのだろう。
知らないところに修業に来て、知らない人のところに嫁いでいくことを
不満に感じたことはないのだろうか。
もしも自分が抗おうとしているなどと言ったら、どんな反応を返すのだろう。
一瞬出かかった言葉を、桜乃は頭を振って落とした。

止めよう。
気が合うとはいえ出会ってから一時間ばかりしか経っていない相手にいきなり言うことではない。
もう少し、頃合を見て聞いてみる方がいいのかもしれない。
そう思って思考を打ち切ろうと、全く関連のない話を持ち出す。


「乾さんって、ちょっと変わった人だよね」
「まあね。変わってるかも。ああ、忠告しとくわ。もしこの先乾さんに新作を試してみないかって
 言われても絶対に野菜汁は飲んじゃ駄目よ!」
「どうして?健康に良さそうなのに。それに心体が向上するんでしょ。いいなぁ」
「ダメダメ。あれね、すっごーく不味いらしいの。直接飲んだことはないんだけど、
 飲んだ人が片っ端から倒れてるのなら何回も見てるわ」


ちょっとした罰ゲームに使われているらしい。
飲まされることを恐れるあまり皆仕事をきちんとこなすようになったとか。
心体の向上という点ではあながち外れてもいない。
ただ、それは



(明らかに強迫観念だよね・・・)



事前に知れて助かったと桜乃は息をつく。
もしも知らずに勧められたまま試飲していたらと思うとぞっとする。
特に自分はそういうことに流されやすいので、
災悪を事前に避けることが出来て底知れぬ安堵を感じた。
どれほどの味かは未知だが、飲んだだけで倒れるということは尋常ではない。


「ま、そういうこともあるけど気落ちしないでね。むしろ修業先がここで良かったと思うわよ」


目線で先を促すと、朋香は眉尻を下げて刻々と語る。


「他の屋敷に行った友達の話を聞いたんだけど、結構キツイとこもあるらしいよ。
 貴族の娘じゃなくて、本当にメイド扱いされたり、酷いとセクハラ〜とか」


桜乃はさっと顔色を変え、トレイを落としそうになった。
それを慌てて支えつつ朋香が先を続ける。


「確かに南次郎さんはちょっとセクハラ発言もあるけど、それは愛嬌って感じだし。
 根はいい人だから適当に流せばいいわ。仕事もキツイものはないし、結構時間に余裕あるしね。
 慣れてくれば分かると思うけど。好ましい職場だわよ」


メイド服に腕を通したのがつい先程の桜乃にとってはまだ釈然としないが、
朋香の態度を見ていれば、その言葉に偽りや気休めがないことは分かる。
一緒にいて気持ちの良い相手だ。
それを考えれば今まで会った誰もが感じの良い印象を受けた。
と、そこまで思い返して、余計なところまで記憶を遡ってしまう。

そう、ただ一人を除いて。
猫のような鋭い目に頭痛を感じた時、朋香が桜乃に詰め寄った。


「それになにより、リョーマ様がすっごくカッコイイしね!それだけでここに来て正解って感じよ」


タイミング良く出てきたその名に、桜乃はうっと詰まる。


「朋ちゃんはリョーマく・・・様といっぱい話すの?」
「あんまり。こっちが一方的にって感じ。寡黙って感じでもないけどクールなのよね。
 そこがいいんだけど」
「そっか・・・・・そっかぁ」


なんとなく嬉しくなって自然に目許が緩んでいった。
まるで仲が良いかのような物言いに募った寂しさが、安堵と共に晴れてゆく。
そして、はたと思い留まる。

「安堵」って何だ・・・??
湧き上がった疑問を、桜乃は気のせいで流した。


「着いたわ、ここがリョーマ様の自室」


トレイのせいで両腕が塞がっている桜乃の代わりに朋香がドアを叩いた。
すぐに中から返事があり、ゆっくりと内側へ開かれてゆく。
室内から漏れる陽の光を感じた瞬間、背筋が凍りつくような緊張が全身を駆け巡った。

鋭い二対の目が桜乃の姿を捕えて、ピンと張った背中が強ばるが、
なんとか一歩室内に足を踏み入れた。
トレイがあって歩きづらいことを抜かしても、右手と右足を同時に進めているような違和感がある。
かいた汗で滑りそうになるトレイを持つ手に力を入れて、リョーマが鎮座している机に持っていく。


「お、お待たせしました。お茶です」


さっきの素っ気無い物言いを思い出して、何を言われるのか想像できず、
マイナスの方向に頭を支配されながら桜乃はティーカップに紅茶を注いでゆく。
ポットから流れ出る間に熱さを証明する湯気がゆらゆらと宙を踊るのを、リョーマがじっと見ていた。


「どうぞ」
「どーも」


数時間前に会った時と変化の見られない態度でリョーマはカップを持ち上げた。
さっさと去ろうと思ってはいたのだが、朋香に視線を移せば部屋の中央にあるソファで、
不二や菊丸、河村と楽しそうに話し込んでいる。
メイドなのに仕事を放っぽり出していいのだろうかと疑問に思いながら、
おかげで部屋を出るわけにもいかず、リョーマの隣で所在なげに佇むしかなかった。
視線を感じて隣へ視線を戻せばリョーマがじっと自分を見ていた。



(え?な、なに〜!?)



トレイを胸にギュッと抱えて、蛇に睨まれた蛙はきっとこんな気分になるんだと
胸中で悲鳴を上げるが、はたと、蛙にさえ自分は同情されるのではないかと思えた。
注がれる視線はゆっくりと上から下へ移動していく。
細められた視線が何を思い、どう自分を写しているのかビクビクしながら見送るしかない。

ぎこきなく微笑んで


「あの、味のほうはどう、ですか?」


正直に「なんの用だ?」と強気に出れず、注意を反らそうとたどたどしく言ってみる。
明らかに緊張しているらしい桜乃の様子に、リョーマは一瞬だけ柔らかく息を抜いた。


「まぁまぁなんじゃない?」


猫舌なリョーマにとって、紅茶が蒸れる温度が受け付けないらしく節目がちに紅茶を冷ます。
瞳が半分でも伏せられたことで剣呑な雰囲気が消え去り、少し肩の荷が下りた気がした。



(まぁまぁかあ・・・うう、頑張ろう。あれ?でも・・・)



「これなに?」
「え?」


考えに没頭して、リョーマの意図を計りかねる。


「紅茶、なに?」
「あ、えと、アールグレイです」


朋香からよく飲むと言われて煎れた紅茶のはずなのになぜそんなことを聞いてきたのかと思って、
ああ、と合点がいった。


「蜂蜜が入ってるんです!あの、疲れてるときにいいと思って・・・」


それが勝手な判断だったので、自然語尾が消えて行く。
謝ったほうがいいのか一人で考え込む桜乃を視界の端に入れて、
ポツリとリョーマが口の中だけで呟いた。


「相変わらず」


「え、なんですか?」
「いや、なんでも」


独言のつもりが、聞き返されてバツが悪そうに視線を反らして、言葉を濁すように紅茶を口に運ぶ。



『相変わらず、細かいところでやってくれる』
そう言おうと思った言葉は口を滑ることなく心にしまわれた。


昔一度だけ会ったときもそうだった。
普段はドジったり空回ることが多いくせに、他人でも意識しないようなところの気遣いは抜目ない。
しかもそれが確実に自分のためになるところも意表を衝かれるのだ。
本人の自覚がないのもまた不思議で興味深い。


先を続ける訳でもなく、紅茶を飲み続けるリョーマに桜乃は疑問符を浮かべるしかなかった。
本心で、リョーマがしっかりと昔のことを回想しているなどとは欠片も思わず、
一人で狼狽えるばかり。

が、ふと頭に過ったことが再び浮き上がって、きょとんとする。
決しておいしいとは言わなかったし、今も淡々と飲んでいるように見えるが、
紅茶を飲む手が全く止まっていない。
「まぁまぁだね」その言葉の中にあった本心に桜乃は急に触れてしまった。
心が暖かくなってくるのが分かる。

どうやら自分の煎れた紅茶は、わざわざ挑発するようなことを平気で選ぶ生意気な彼に、
気に入ってもらえたようだった。
目許が緩んで、微笑んで見ていると、今度はこちらの視線に気付いたらしいリョーマが
怪訝な顔で見上げてきた。


「なに?」
「なんでもないですっ!」


この発見はまだ内緒にしておこう。
小さい頃の宝物のように、桜乃は心で思って、ポットから紅茶を注いだ。
こちらの手付きを眺めていたリョーマが、突然ふっと息が抜けるような笑いを零す。


「リボン、曲がってる」
「ふえ?」


視線を辿ってみると、メイド服の襟元で結ぶリボンが反模範的な形で止まっている。
左右の大きさが噛み合わないリボンに、ポットを置いて慌てて直してみるが、どうもうまくいかない。
何回か直しているうちに、唐突にリョーマが腕を伸ばしてリボンに触れた。


「あの、えっと、リョーマくん?」


突然で対応出来ずに、自分でも気付かないほど無意識に昔の呼び方で呼んでしまう。


「じっとして」
「・・・うん」


頬が紅潮するが、言われた通りに大人しくするしかなかった。
目の前にリョーマの端正な顔がある。そのことを妙に意識してしまう。


「あの、まだですか?」
「もう少し。はい、出来た」


そう言って離れて行くのにどこか寂しさを感じながら、リボンをみると、
綺麗に左右対称になって結ばれていた。

冷たいと思っていた。
昔の面影などないほど素っ気無いし、嫌われているのかも知れない。
そんな危惧が一片に吹き飛んでいく。
嬉しくなって、桜乃は心の底からふんわりと微笑んだ。


「ありがとう、リョーマ君」
「・・・・・・ん」


優しいその表情に一瞬だけリョーマは眩しそうに目を細めて、自分も微かに微笑んだ。
ニコニコと笑みを崩さずに、紅茶を飲み始めた彼の傍ら、窓の外を見上げる。
この屋敷でのこれからを思い沈んでいた気分は、見え始めた光に浮上していく。
これは順調なスタートかもしれない予感。



(うん。なんとかうまくやっていけそう・・・・かな)



今日の天気はまったくの洗濯日より。桜乃の心情と少しだけ相似し出した。




     ◇◆◇◆◇




「見た?」


そんな二人を遠巻きに、ソファから三人が見守っていた。


「見ちゃった」


信じられないものを見た目つきで河村が呟くのに、対照的に楽しそうな英二が答える。


「ふふ、面白いことになりそうだね」


興味深そうに不二もそう呟く。
その、何か底の方に含んでいそうな声音に、視線の先でタイミングよくリョーマがぞくっと
体を強ばらせたのを確認しながら、朋香は呆れた顔つきで三人を更に見守っていた。
しかし、この先自分たちになにが待ち受けているのかを想像して、
朋香も愉し気に密かに目を光らせたのだった。








パラレル第二段です。
「黄塵の都」と違い、こちらはコメディタッチに
なっているかと思います(←思います強調)
どうも、私の趣味でオールキャラを出してしまうのですが・・・、
こっちも、リョ桜として書いてますので。
「あれ?下北沢、ちゃんと仕事してないじゃん」
と思った方、見捨てず読んでやってくださいっ!!

あ、この話、読んでくださった方々に「ほんわか」してもらおう!
をモットーに書いとるまする。
「「ほんわか」したよV」って方がいらっしゃったら是非感想ください〜vv

では皆様。
どうぞ、桜乃のメイド姿を妄想しながら読んでくださいね(笑)




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