「ここ、だよね・・・」



半信半疑な弱々しい声音で、桜乃は目の前に構えた門を見上げた。

正しくはその向こうにそびえ立つ洋館を、圧倒される思いで見つめた。



桜乃の実家、竜崎家は中流階級の貴族に当たる。

自分の祖母よりも幾代か前まではちゃんとした上流階級を名乗っていたそうだが、
事業に失敗したか何かで中流に落ちたそうだ。

が、しっかりした理由は誰もが閉口するので、実のところよく分からない。

どちらにしろ桜乃にとってはあまり意味のないことなので執拗に追求しないことが、
謎を謎のままにした理由なのかも知れない。

取り合えず、現段階で然しも役に立つわけでもない。


中流とは言っても、当然貴族なので明日食う飯に困るわけでも、
屋敷で働く者を雇えないわけでも、給料が払えないわけでもなく、問題はない。

ただ、この社会で上流以外はどこも同じような生活水準なので、
貴族の中流は在来りと言えばその範疇にすっぽりと入るだろう。




上流階級は別だ。

彼らは一般家庭は愚か、中下級の貴族の思考さえ超越するほどの贅沢さを
いとも簡単に扱ってみせる。

なのでこの立派な屋敷も今更驚くようなこともないわけなのだが、結局のところ・・・・・




(慣れそうにないよう。実家のお屋敷が何個入っちゃうのかな)



泣きそうになりながら浮べた感想に自分で辟易しながら下腹にぐっと力を入れた。

悠長に驚いている場合ではない。

今日から自分はここで辛い毎日に耐えていかねばならぬのだ。





中流階級の娘は、ある一定年齢に達すると、上流階級の貴族の屋敷に働きに
出掛けるという昔からの習わしがあった。

今も健在な掟は、もうこんなものしか残っていない。

それは効率の良さが幾代もの貴族間で認知されたからだが、桜乃も当然その習わしに従うことが
生まれた瞬間から運命づけられていた。

この年になるまで両親が刻一刻とカウントダウンをしていたかと思うと正直誕生日の祝いに
釈然としないものを感じたが、頭を振って考えを振り落とすことにした。

十五年間慣れ親しんだこの方法が、きっと桜乃にとっての生涯の掟になるに違いない。


上流階級の屋敷に中流階級の娘が働きに出掛けるというのは、
単に下働きをしに行くということとは違う。

将来添い遂げる旦那様への心配りや、世話の仕方、行儀見習い等をメイドとして
学ぶことを目的としている。

つまり、早い話が花嫁修業だった。

最低一年、長くて二年の期間をメイドとして働き、履修すると、それぞれ宛てがわれた
旦那様の家名へと嫁ぐ。

本人の意志に関係なくこの決まり事は行事のように淡々と行なわれていくのだ。




桜乃にとって、これは脅威以外のなんでもなかった。

嫁いでしまった従姉妹などの話を聞く限り、それほど悲惨な話でもないのだが、
貴族にとってのその当然の習わしが、ひどく非情に思えるのだ。

回りには笑われるかも知れないが、生涯添い遂げる相手は
やっぱり見も知らぬような相手ではなく、自分で見付けた最高の恋人がいい。

今から修業に出るのは、修業先の門を前にして避けることなど出来ないだろう。

回れ右をしたい気持ちを力を入れた腹の中に押し込めて、我慢する。

今からスタートする未知の屋敷で、猶予期間はわずか二年。




「・・・と、とにかく、修業だけは頑張ろう。花嫁修業は大切だし」



あとから思い至ったこの論理には一応納得している。

納得する論理を選んだ。

自分が最高の恋人を見付けても、花嫁修業自体に損はない。

そして、その間に習わしに抗う正当な打開策を見付けなければ。

律儀という言葉が昔から自分の代名詞の一つと言われ続けた彼女は、
小さく意気込んで、門の横に据えられたインターホンをとうとう押した。









     ◇◆◇◆◇ 花嫁の王子様・「桜乃、修業に参る」 ◇◆◇◆◇







「どーも」
「・・・・は・・・ぁ・・・・・」


呆気ないくらいに素っ気無く言われたその一言に、桜乃は生返事をするしかなかった。
我ながら間抜けなんじゃないかと思える返答だが、しかし、他にどう返せと言うのだろう。
インターホンを押して、中の使用人に話が着いていたことからすんなりとここへ
通されたまでは良かったのだが、目の前で自分を見下ろす少年は、
呼びかけと同じような表情を浮べるだけだった。


この越前家の主、南次郎の一人息子の越前リョーマは、幼い頃に実は一度だけ会ったことがある。
祖母に連れられて、ほんの少しの時間を共に遊んだ。
その為、他の家よりは気安いのではないかという期待があったのだが見事失敗に終わる。
それが修業先に関して、孫に甘い祖母が考慮してくれた唯一の点のはずだったのだが、
どうやら全く意味がなかったらしい。


「あ、の」



躊躇いがちに発した声は、先を続けることが出来ずに空気に薄く溶けた。
困惑した表情で見たリョーマには昔の面影はあまり見当たらなかった。
そのことに余計に心細さが募る。
端正な顔立ち、やや青みがかった艶やかな髪。涼やかな中に甘さを含ませたような声。
昔と比べると大人びてしまった彼に鼓動が脈打つのを感じるが、
今のやりとりで先行きの不安を感じる方が大きくなった。
当然昔話など出来るような雰囲気でもない。
不安が肥大して勝手に桜乃がそう思いつめているだけで、リョーマとしては
意識して冷たい態度をとっているわけでもないのだが、他人の心中に気を配ることに
関してはマイナスの方向に長けているので気付くこともない。
ただ、目の前で途方に暮れて冷や汗を浮べる表情豊かな彼女をしばらく見下ろして、
本人には分からないように小さく苦笑した後、肩を竦めてみせた。


「ま、頑張って」
「・・・・・・・・・はい」




    ◇◆◇◆◇





(それってないと思う)


不平をいうつもりはない。自分はこれから厄介になる身なのだから。
しかし、へこむものはへこむ。


「桜乃ちゃん、だったかな?」
「あ、はい」
「あんまり気を落とさないようにね」


謁見室での挨拶が終わって、桜乃はリョーマの指示のもと、
宛てがわれた個室へと案内されながら先を歩く大石秀一郎に声をかけられた。
心配そうな声ではない。
ただ決まり事のように言葉を紡ぐので、桜乃はおやっと思った。


「リョーマく・・・リョーマ様っていつもああなんですか?」


ひょっとしたら今までも何度かあったんじゃないだろうか。
やってきた中流階級の娘に素っ気無く返すのが彼のスタイルなのかもしれないのだ。
自分が嫌われたのではなく。
一つの希望を見たような気になって、縋る目線を向ける。
しかし、大石は別のことに思い至ったように、一瞬きょとんとした顔を、
すぐに笑みに変えて桜乃に向けた。


「ああ、二人は前に会ったことがあるんだっけ?」
「ご存じなんですか?」


これには少し驚く。
そんな思い出など、もう自分と祖母くらいしか知らないと思っていたのに。
足を止めずに「南次郎さんから聞いたよ」と返される。
リョーマ君からじゃないんだ、と落胆してみたものの、
さっきの彼の態度をみれば分かり切ったことだった。
踏ん切りが着かない自分の性格に嘆息する。


「越前なら、いつもあんな感じだから。あんまり気にしなくっていいよ」


穏やかに言う大石に和みながら桜乃はやっぱりと、安堵の息をつく。
大石の気遣わし気な言葉は慣れだった。
今度こそ本当に、嫌われて冷たくされたわけではないと悟った桜乃は不安を和らげて
廊下に面した庭に視線を移した。


「大きな庭ですね」
「越前家は上流の中でも結構な資産家だからね。
 あまり表だって連盟なんかに口を挟むことはないけど、身分的に高いのは暗黙の了解だよ。
 今の主が変わった人だから」


尊敬を通り越して呆れた口調にくすくす笑いを零す。


「みたいですね。まだお会いしていないけど、昔一度遊んでいただいたときは、
 貴族の印象が崩されましたから」
「あはは・・、長い目で見てあげてね。でないと胃薬が必需品になるから・・・」


妙に説得力のあるぼやきに、桜乃は笑った。


「さて、着いた。ここが君の部屋だよ」


そう言って鍵を渡され、明け放った扉の向こうは、驚くほど立派なものだった。
四方の角に立つ柱は細かな細工が施してあり、壁は塗装も新しい淡いクリーム色。
ベランダまで付いて、そこへ続く大きなガラス扉の横のベットは高価とまではいかないにしても、
メイドの身には余る天蓋つきのものだ。
しかもベランダから見える景色は町を一望できるような見晴らしの良さだった。
胸中で驚愕の声を上げて、慌てたように桜乃は大石に顔を向ける。


「あの!お部屋間違ってませんか!?」
「いや、ここだよ」


これも慣れたことなのか、あっさりと返して大石は苦笑する。


「うちはね、メイドとは言え、一応貴族の娘さんに見窄らしい部屋なんて用意しないんだよ。
 それがここのプライドだから、気にしないで。桜乃ちゃん以外の貴族のメイドさんも
 大体同じような個室を用意してあるから」


流石上流!
なんというか、理解の範疇を本当に超えてしまった。
立派すぎる部屋は自分の立場を誤解していまいそうで、かなり受け入れがたかったが、
郷に入っては郷に従えと何度も祖母に言いつけられていたので、内心の葛藤を抑えて、
なんとか礼だけ述べる。
大石は仕事があるから、と、簡単な指示だけして去っていった。
広い部屋に一人だけぽつんと残され、一気に疲れが押し寄せる。

「緊張したよぅ」


どさりとベットに背中から体を預けて首だけで横を向くと、窓の外を伺った。
外は雲一つない洗濯日より。
桜乃の心とは背中合わせ。



(こんなに立派だと落ち着かないなぁ)



それは現実を寄せつけないもののようにも感じた。
今まで自分が見てきたものと違いが有りすぎて、頭が順応せずに、
働きを辞めてしまったみたいだ。
これから一人でこの屋敷で戦っていかなくてはならない。
じんわりとにじんだ涙を手の甲で拭って、気合いを入れるためにも起き上がる。

クローゼットを開け、荷物を仕舞うよりも前に掛けてあったメイド服に着替える。
膝より少しだけ短いふんわりとした裾。
肩から肘上の腕にかけてたっぷりと膨らんだ袖。
大きな襟元は可愛らしいリボンで巻かれ、真っ白で清潔なエプロンはフリルが付いて、
腰の細さを強調するように後ろでリボン結びにするようになっていた。
着替えにもたつきながら、完成した姿を鏡でチェックしてみる。


「うぅ、似合わない」


落胆して肩を落とす。
鏡の中の自分は違和感だらけでむず痒い。
それでも、三つ編みには似合っている気がして気を取り直すと、部屋を出て、
大石の指示通りに先に来たメイドがいるところへ、さっそく仕事に出るのだった。





     ◇◆◇◆◇





「越前。・・・越前リョーマさん?おーチービー!」


リョーマの自室を勝手知ったる足取りで横切りながら、菊丸英二は頬を風船のように膨らませた。

彼には不服があった。
一目で見て分かるほどはっきりと表にも出ている。
その証拠に同僚の河村隆士が、気の抜けた笑みを浮べている。

しかし、彼にとっても人事ではない。
明かな主の不審な様子に疑惑を抱く。
さっきから何度呼んでも反応がないのだ。
自室に戻ってきてから窓側の中央、窓を背にして置かれたアンティーク調の
仕事机に片肘を置いて、そこに顎を固定し、一点を見つめたまま微動だにしない。
目線は部屋の中央に向いているが、そこを見ている訳ではないようだった。
さっき英二が目線の先で手を振っても反応をしなかったからそれはもう確証済だったりする。


「だめだ。タカさーん、おチビが目ぇ開けたまま居眠りしてるー!」


いい加減飽きたのか(とっくにかもしれないが)英二はとうとう根を上げた。


「……寝てるわけじゃないと思うけど」
「でも、こんだけ呼んでも返事ないもん。タカさん、「グレートォ!」とかやってよ。
 そしたら起きるかもしんないにゃ!」


いかにも名案だとばかりに寄ってきた英二に河村は困惑で返した。


「いい方法があるんじゃない?」


二人の間に突然にゅっと顔を突き出した不二周助に英二は悲鳴を上げて飛び上がった。
不二は至って平静ににこやかな目を向けて


「英二、大げさだよ」


と苦笑してみせるが、英二にしてみれば、突然過ぎるその登場の仕方はなにかを含ませていそうで
驚かずにはいられないのだった。


「で、いい方法ってなに?」


二人のやりとりはもう慣れたのか、特に深く考えることもせずに河村が先を促す。
ふふ、と底の見えない息を零してリョーマに近付く。
二人が見守る中、不二が口を開いた。


「越前、テニス、試合しない?」


途端にぴくりと眉が跳ね上がる。
ゆっくりとした動作で不二をしっかりと視界に納めると、意地の悪い笑みを返す。


「いいけど、今度こそトリプルカウンター崩されても知らないよ」


挑発するような言葉をくすっと息を漏らしただけで一蹴して二人に向き直った。


「ほら、ね」


いまいち表情の変化が見られないポーカーフェイスなので、勝ち誇っているのか分からないが、
得意気に聞こえる声に二人はそれぞれ拍手を送る。


「うっわー、不二すっごいにゃ」
「まあ、越前だからね。これが手塚だったらもっと苦戦してたよ」


なにせとっかかりが分からないから、とは心の中だけで呟いて。
状況が掴めず、肩透かしを食らった状態で、リョーマは眉を寄せた。


「もー、おチビってばさっきっからずっと呼んでるのに返事がないんだもん。
 寝てるのかと思ったじゃん」
「はぁ」


あからさまにどうでも良さ気な返答が気に入らず英二は再び不服を露にするが、
不二は少しだけ涼しげに目を開けて、リョーマを見遣った。


「気になることでもあったの?」


少し間が開く。


「別に」


リョーマにしては珍しく一拍おいた応答に英二はきょとんと目を向けた。
特に印象に残るわけでもないが、静かな間が流れる。


「・・・あのさ、喉乾かない?」


ぽつりと、英二は不可解な空気に終止符を打つべく呟いた。


「お茶でも貰おうか」


そして、河村が内線の受話器をとる。





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