「遺伝子学。」

 父親が口に出した単語を、その息子も冷淡に聞こえる声で繰り返した。

 遺伝子学。
 サクノの母親が習っていた、すべてが始まるきっかけをつくったもの。

(遺伝子学。)

 脳の中に、リョーマはその単語をはっきりと刻んだ。
 それから、玄関へと足早でむかう。
 後ろから南次郎が何事か叫んでいるが、彼は反応しなかった。
 下駄箱から靴を出し、履こうとして、彼は唐突に違和感に気付く。
 彼の頭の上には、彼愛用の帽子がなかった。
 そのことに気付いた彼は躊躇することなく寝室に戻り、帽子を頭に乗せて階段を下りていく。
 その途中で、彼は南次郎の顔を見た。
 彼のことをものすごい顔で睨みつけている、彼の父親の顔を。

(・・・ガキかよ。)

 心の中で罵倒してから、自分の父親に向かってリョーマは面倒臭そうに言った。

「It goes to the branch eating.」










 ものすごく適当に、リョーマは街中を歩く。
 別に食べたいものなんてなかったからそうしているのだけれど、その実、彼は自分が心の奥底で期待していることを自覚している。

 ――― もしやここら辺に来てはいないだろうか。

 心中に小さく存在する淡く脆い期待は、やはり彼の心中で音もたてずに消え去った。

(・・・いない、か。)

 彼は今日に限って彼女に会いたがっていた。
 いや、本当は今日に限ったことではなかった。
 そんなことは彼自身も分かっていた。

 自室でも。居間でも。学校でも。テニスコートでも。

 気がつけば、彼女の姿を探している。
 彼女に会うまでは、自分の頭の中はテニスのことでいっぱいだったのに。
 親父をどうやって倒そうとか、強い奴にはどうしたら会えるのだろうとか、脳味噌は常にそんなことでいっぱいだったのに。

 彼女が、越前リョーマという人間を作り直してしまったのだ。
 
 会いたいと思った時に後姿だけでも見つけられたなら、リョーマは満足だった。
 そう。満たされていたから誤魔化すことができていたのだ。
 この、淡く切ない、普通ならおおよそ家族に対して抱くことのない感情を。

 リョーマにとっては痛くて仕方がない、一目惚れという事実を。


 竜崎桜乃という少女を一目見た時ほど、彼は彼の父親のことを恨んだことはなかった。




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