奥の部屋は出入り口に面した部屋よりも更に敷居が広い。
もちろん、だからこそのレジスタンスのアジトなのだが。
スラム街にこんなものを建てて、一体どうするつもりだったのかとリョーマはよく
暇を潰すように考え事をした。
今も頭がそちらに働こうとして、慌てて意識を目の前に戻す。

部屋にはリョーマを含めて計5人。
桃城に英二、大石、先に帰ってきていたらしい不二。
海堂はいない。桃城との小競り合いも早々に切り上げて、更に奥にある部屋に入っていった。
そこにいる人物に用があるのだ。
海堂はよくその人物の用事に使われる。
その人物の個人的な使用人といっても過言ではないと思う。
レジスタンスの行動とはまた違った活動をしているようだった。

そんなことはともかく、とリョーマは視線を上げる。
不二がリョーマの方に寄ってきたためだ。


「お帰り。ずいぶん遅かったみたいだけど、なにかあったの?」


いつもの笑顔を不二は向けるが、どこか探るような気配を感じた。
一見人の良さそうな笑顔は彼の常套手段といっていいのだろう、
実際この男が何を考えているのか読めたためしがない。
笑顔という名のポーカーフェイスに嫌な汗が浮かぶことも多々あった。


「別に……」


何もないと続けようとして、一瞬頭に三つ編みが浮かんだ。


「そう、こうして戻ってきたから、まあいいけど。なにかあったのなら言ってくれないと。
 越前一人に青竜を危険に晒したくないんだ」


存外に、青竜のただの駒だ扱いされて一瞬頭に血が上るが、なんとか抑える。
この男の挑発にのってはダメだ。


「へぇ、さすが不二先輩。青竜が大切なんスね」


なんの感情もない声音で言うのに、不二は薄く目を開けてリョーマを見下ろした。


「うん。大切だよ」

「………なんで?」

「したいことをするためさ。そのために僕はここにいるんだから、
 それが出来なくなるような組織にはして欲しくないんだ」

「青竜のためじゃなくて、自分のためっスか」


言葉に非難するような部分があった訳ではない。
だが、欠片程の罪の意識が、不二にそう聞こえさせたのだろう。
嫌そうにリョーマに視線を向ける。


「悪いかい?越前だってそうなんだろう?」

「………まぁ、そうっスね」


噛み潰した苦虫の味が口内に広がる感覚に、リョーマは眉根を寄せた。


「見るにゃ、桃。あそこの二人、不景気な話してるにゃ」


やや冷や汗を浮かべつつソファから興味津々で視線を送ってくる英二。


「見ちゃダメっすよ、英二先輩。見ただけで不景気が移るんすよ……」


戦慄したように恐々言う桃城。


「ひどいなぁ、人を病原菌みたいに」


怒ることなく困ったように不二は言った。
話が中断したことに多少救われながらニヤっとリョーマは笑みの形を作る。


「そうっスよね。桃先輩は不景気が移ったら困りますよね」

「んなっ、何言ってんだよ越前」

「別に。〃婚約者の杏さんと結婚の話を勧めてるから不景気になったら困るんスよね〃
 なんて一っ言も言ってないっスよ」

「なっ!え、越前〜〜〜!」


焦ったように顔を真赤にさせて襟首を掴もうとするのを回避すれば、
虚空を掴んだ手を不二が掴む。

「そうか、桃、おめでとう。この手は越前じゃなくて杏ちゃんを掴んであげなよ」

「不二先輩まで〜」


からかう口調で微笑む不二に脱力して桃城はその場にしゃがみ込んだ。


「でも本当の話、いいな〜桃。俺もそんな人が一人や二人欲しいよ」

「こら、英二。二人はいらないだろ」


たまらず訂正を入れる大石に英二はぶうっと頬を膨らませた。


「可愛い女の子と知り合う機会もないんだから夢見たっていいじゃん」

「そういう問題じゃない気がするけど………」


呆れたように桃城が床から声を上げる。


「幸せっ子の桃に言われたくない」

「駄々っ子だな、英二」


宥めるように大石は背中に手を添える。


「でも、英二にはその前にしなくちゃいけないことがあるんじゃなかったかな?」

「不二………そうだよね」

天井を見上げて、英二は口の中だけで呟いた。


「……無理に思い出さなくてもいいんじゃないか?」

「ううん、それじゃダメなんだ。だってさ、俺にも桃みたいに大切な子がいたかもしれないんだよ、
 その子を独りぼっちにしてたら可哀想じゃん。
 ………いなかったら、まぁそれはそれなんだけどさ」

「英二………」


にっこりと笑ってみせる英二からふっと大石は目を逸らして同じように天井を見上げた。


「ふうん、皆なんか飢えてるっスね」


どうでもよさそうに呟くと一勢に全員の視線が集まって、リョーマはなんとなくたじろいだ。


「なんスか?」

「そういうおチビにはいないの?」

「は?何が?」

「惚けやがって。好きな奴とかさ、いないのかって」


肩に腕をのせてくる桃城に「重い」と文句を言いながら、頭の中に再び少女が浮かんだ。
何度もぶつけられた強い意志を持つ瞳が脳裏を掠めていく。


「………いるわけないっスよ」

「そこで否定する後輩ってどうよ」


呆れたように肩から離れた。


「桃、そろそろ帰った方がいいんじゃない?杏ちゃんと夜食べるって行ってなかったっけ?」

「おおっと、そうだった。じゃあ今日はお疲れさまっした!」

「うん、気をつけて帰れよ、桃」

「またにゃ〜」


慌ただしく扉を閉める音が響いて、桃城は姿を消した。



 〃扉一枚隔てた世界〃



扉を見つめながらいつかあの人が言っていた言葉を思い出した。
桃城には帰るべき家がちゃんと残っている。
扉を開けて、広い世界へと通じる道がある。
死を覚悟してレジスタンスをしている自分たちとは違う。


「幸せになるといいっスよね」


ぽつりとリョーマは零した。
自分たちが戻れない世界にいる人に希望を……。
今も奥の部屋で難しい顔をしているあの人の言葉が頭を過った。


「だね。桃にはちゃんっと未来を残してやんなくっちゃ、しょーがないからねー」


にゃははと快活に笑って英二はテーブルの上のリンゴを手にとった。
そのリンゴを不二や大石、そしてリョーマに投げ渡す。
それぞれ手にしたリンゴを噛れば、口の中一杯に甘い味が広がった。



「おや、越前も帰ってたのか」


奥の扉が開かれ、現れた人物にリョーマは首に巻いていた青竜の布を差し出した。


「これで四枚目。よし、今回も欠如なし。全員無事だね」


小脇に抱えたノートに書き込みをしながら渡した布と、帰ってきた布とを少年は照合する。
眼鏡を押し上げて、少年、乾貞治はノートを閉じた。


「海堂の報告は終わったのか?」

「ああ。丁度大石と英二を呼びに来たところだ」

「分かった。英二」

「ほいほーい。リーダーがお呼びならってね」


乾の後に従いながら、二人は奥の部屋に消える。
あの二人が一緒になって奥の部屋(主に作戦会議室)に呼ばれると言うことは、
海堂薫がうまく情報を持ってきたということだ。


「諜報の二人がこれから行動を開始するなら実働部隊は今日はもうないってことだよね」

「帰るんスか?」


体を預けていた壁から離れる不二にリョーマが投げかけるのに、意外そうな顔を見せて


「そうするけど。越前は帰らないの?」

「そう………っスね。俺も帰ろうかな」

「うん、そうしなよ。たまにはゆっくり休むといいよ。じゃ、お先に」


そう言うと、さっさと部屋を出ていってしまう。少しして出入り口の扉が閉まる音がした。
誰もいなくなった部屋でリョーマはソファに体を預ける。
使い古したソファは幼いリョーマの重みなど簡単に受けとめてしまう。
ソファの背に頭を預けて天井を見上げれば、何の変哲もない木目がリョーマを見下ろしている。






       「逃げろっ!」





はっとして目を見開く。
心臓の音が急に鼓膜を振動させた。
気持ちがどんどん焦りを呼ぶ。





       「馬鹿野郎、なにしてる。行け、リョーマ」





聞き慣れた声のはずが、その感覚が徐々に薄れていくのは気のせいだろうか。
認めたくない現実がそうさせているのかもしれない。
今は、もういない。





       「俺も後から行く。んな情けない顔してんじゃねぇって」






幻聴のはずなのに、今も心を引き裂かれる感覚に、リョーマは吐き気を感じた。


「もう、いないんだ」


あの日の彼の声が、最後の声が鼓膜に刻まれたように耳の奥から響いて、
自分に言い聞かせるしかなかった。
自身を落ち着かせるように腕で天井を見上げたままの目許を抑える。
しばらくそうしていると、うるさかった鼓動が徐々に落ち着きを取り戻した。
ふうっと一息吐いて、腕を離すとのろのろと起き上がる。
そのままおぼつかない足取りで、出入り口まで向かった。
扉を開けると、隔てた世界が明ける。
外は薄暗くなり始め、遠くからパレードの賑やかな音が響いていた。






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