壁の中は暗い通路になっていた。
そこを抜けて、明るい日差しの下に出た途端に桜乃は「じゃあ、気を付けてください」と 呆気ないほど簡単にリョーマを解放すると、とっとと歩き出した。 用事は終わっている。 指定時間までに紙袋の中身も届け終わっているし、その帰りにトラブルにあって緊急の、 本来なら自分たち以外使ってはいけない通路を使う羽目になったが、 まあまあ順調に仕事は終わっている。 (さっきの人もなんとか逃げられたし、良かった) もう誰も目の前で死んでほしくない。 そんな思いを込めて、桜乃は胸中で胸をなで下ろすと、一件の店の前で足を止めた。 従業員用の戸を押し開けると、半端に開けたところで背後からした声にはっとして振り返る。 「へぇ、料理屋ニイチャイね。中国料理か」 さっきの少年だった。 別れたと思った地点からここまで、付けられてる気配など微塵も感じなかった 自分の失態に今更気付く。 というよりも感じさせなかった目の前の少年に戦慄せざるを得ない。 「なんの用ですか?」 努めて冷静に桜乃は向き直る。 「別に」 どうでもいいことのように素っ気無く応えて、リョーマは真正面から桜乃を見据えた。 油断のならない双方の視線がぶつかり合う。 「あんたが何のつもりで助けたのか知らないけど、一方的に借りを作るのって癪に障るんだよね。 だから、あんたの弱味を一応にぎっとこうと思って」 「弱味………」 「っていうか、まあ、どこの誰かだけでも把握しとかないとうるさいから」 リョーマがにこやかな笑みを浮かべる先輩を思い浮かべている間に、桜乃は苦虫を噛み潰す。 やはり迂闊だった。 自分一人のせいでこの料理店の人を全員危険に晒しかねない。 「で、あんた何者?レジスタンスじゃないとすると、情報屋、それから、運び屋……」 桜乃の肩がピクッと揺れる。 「なるほど、運び屋ね」 しまったと思うころはすでに遅かった。 よっぽど注意しなければ分からないほどの些細な反応を見逃してくれるような 相手ではなかったらしい。 「裏の顔を持つ料理店なんて、やるじゃん」 ニヤリとした笑みを浮かべるリョーマを桜乃は睨み据えた。 「何が目的ですか?」 慎重に、言葉を選ぶようにして話す桜乃に、リョーマは肩を竦めた。 「さあね」 「……………」 しばし無言で見つめ合う。 まっすぐに桜乃の瞳を射貫いたまま 「恩を売ろうとでも思ったわけ?」 「別にそんなんじゃ」 「俺がどういう奴かくらい検討付くんでしょ?いっとくけど、そんなこと無駄だよ」 冷たく言い放つ。 が、突き放されても桜乃の瞳の色は変わらなかった。 「………いけませんか?目の前の人を助けて」 「レジスタンスは革命家じゃない。 俺を助けたことで、この先もっと多くの人が死ぬ羽目になるかもね」 「それでも ―――」 一呼吸。その間がスローモーションのように感じられる。 まっすぐな瞳は濁り方をまったく知らないようだった。 「それでも、目の前にいる人を助けることには悪いことはない」 信じ切った瞳は今まで見たどんな信者の瞳よりも強い。 リョーマも強く見つめ返す。 それだけで世界を支配しているように、ある種、信者の瞳に抵抗するように。 「〃姫〃ー?帰ってるの?」 はっとして聞こえた声に焦りを浮かべて桜乃は振り向くと、努めて明るい声を上げる。 「あ、う、うん、帰ってるから」 声を張り上げてからもう一度振り返った時、少年の姿は消えていた。 「姫?どうしたの?」 店の奥からツインテールに髪を纏めた一人の少女が顔を表わす。 「なんでもないの。ごめんね、〃龍〃。遅くなっちゃった」 「本当よ。店の仕込の時間に間に合わないかと思ったんだからね! 今日は祭りでかきいれ時なの。忙しくなるんだからね!」 「うう、分かってます〜」 情けなく眉を八の字にする桜乃に、もう一人の少女、朋香はふふっと息を漏らした。 「でも、無事に帰って来たからよしとするわ」 そう言って桜乃の手を取ると、店の奥へと促した。 引っ張られながら、もう一度店先を振り返る。 あの少年の影どころか、その場所にいた事実さえ消えたように思えた。 |