あーあ、ったくやってらんねぇよ。
なんだって日曜に行きたくもない場所にわざわざいかなきゃなんねーんだ。

ぼやいても始まらないとは世の中の意見だが、
ぼやいてでもいなきゃやってられないというのがこの男の持論だった。
怠惰な表情。怠惰な歩行。
さわやかな朝には到底似つかわしくないその男が更に似つかわしくない公園なんぞに足を向けたのは、単にそこを突っ切る方がバス停への近道になる、それだけが理由だった。
走り回る子供を鬱陶しそうに眺め、足にぶつかろうものなら睨み付けて追い返してやる。
大人の取る行動ではないが、まだまだ学生の身分なので「どうでもいい」と結論つけた。
公園を渡り終え、角を曲がろうとした時だった。
ドンと腹になにかが衝突する。

「ってぇな」
「あ、あの、ごめんなさい」

小柄な少女はそう言うとペコリと頭を下げた。
頭の軌道を追って長い三つ編みが揺れる。
大きな瞳が不安そうに揺れるのが、庇護欲を誘うようで男は更にむっとした。

「どこ見て歩いてんだよ、てめぇ!」
「どこって、その、あの、ごめんなさい・・・」
「誤ってそんで「はい」って訳にいくかよ」
「ご、ごめんなさ・・・・・」

「もう、その辺にしといたら?」

冷えた声が二人の間に降りた。
大声でもないのに不思議と響く声は凛として、鬱屈な空気を一蹴してしまう程力がある。

「なんだお前」
「りょ、リョーマくん〜」

泣きそうになりながらそれでも、
声の主が現れた途端少女は目に見えてほっとした顔をした。

「桜乃。だからフラフラ出歩くなって言っただろ」
「うん、ごめんなさい」
「何かに引かれたなら言ってくんなきゃ」
「うん」

桜乃と呼ばれた少女の傍まで来た少年は、男を無視して二人だけの会話を続けた。
「奇妙な子供だ」男の第一印象だった。
いや、男でなくともそう思えたかもしれない。
一人でいるときはそこらにいるただの子供なのに、
二人そろうとなにか圧倒的な存在感があるのだ。
まるで初めから二人で生まれてきたとでもいうように・・・。

「聞いてんのか人の話を!大人の言うことはよく聞いとけよ、ガキ」
「あんたさぁ、いい年した大人がそんな自分勝手な振る舞いしていいと思ってんの?」
「んだと!」
「あ〜あ、やだやだ、これだから偉そうな大人は始末に終えないんだよね。
 ぶつかって来たのはそっちじゃん。なに人のせいにしてんの」
「なっ・・・」

押し黙った男に嘲笑を向けて、リョーマは更に冷ややかに言い放った。

「忠告しとくよ。あんたその卑屈な考えを改めた方がいいよ。
 でないと余計なモノを引き寄せる」
「・・・・・けっ、ガキが。知ったような口きいてんなよ」

苦いものを飲み下したような顔で、男は吐き捨てると二人に背中を向けた。

「なんだってんだよ、あのガキ、生意気だっつうの」

言いながら何かが引っかかった。
背筋がそれに合わせてゾクゾクと神経を蝕んでゆく。
心なしか、肩が重いような気がした。

一方男を見送りながらリョーマと桜乃はその背中をじっと見つめる。
男が振り向いたならひょっとしたら見えたかもしれない。
桜乃の右目が、リョーマの左目が金色に光ったのを。
ただそれも瞬きの間だけの幻に過ぎないのかもしれない。

「見つけたね」
「ああ、あれはもう重症だな」
「よかったね」
「よかったよ」

意味深な言葉を残して二人は微笑み、公園から姿を消した。
つかの間の幻のように。


2005.9.25
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聳(そび)え立つビルがドミノの様に立ち並ぶ風景から
窓枠は山ばかりが目立つ自然の景色へとその様子を移し変えていった。

(あ〜あ、なんっで俺がわざわざ遠縁のジジイなんぞに会いに行かなきゃいけないんだよ)

胸中で毒づきながら男、井坂敏行はあの日突然かかってきた電話を思い出していた。
それは思ってもみない相手だった。
思ってもみないというより、選択にない相手だったのだ。
親戚とはとっくに疎遠になっていると思っていた。
なにせ両親が駆け落ちなんぞしたせいで
未だ親戚と名のつく人種に会った事がなかったからだ。
だと言うのに・・・

リンリンリン

「はい、もしも・・・」
『おじいちゃんだよ』
「は?あの、もう一度お願いします。電波悪いみたいで・・・」
『最近どうも調子が悪いんだよ。敏行家に遊びにこないかい』
「は?あの・・・」
『おとぉさん、おかぁさんはこの間会ったからねぇ』

本当に一方的だった。
どうやら最近調子が良くないらしく、死ぬ前に一度は会ってみたいとの事だった。
本当に、年よりはなんで大人しくいなくならないものかとうんざりする。
非道なことを思っているのは承知だが、だからと言って我侭に付き合うのは嫌だったのだ。
だが、両親に相談すれば、「行って来い」と言われるばかり。
いくら却下しようとも阿呆のように「行って来い」を繰り返すのだ。
本意でないが仕方なかった。

目的地に辿り着きバスが停留する。
この停留所が終点なので、バスは折り返し出発点へ戻るそうだ。
緑豊かな山を目にして敏行は更に眉根を寄せた。

(ここで降りたのは俺とジジイとババアの夫婦に黒のコートの男か・・・シケてんな)

ふっと息をついて、男は一本しかない道を、老人が待っている村へと歩き出す。
共に降りた三人も敏行の後に続く。
どうやら目的地は同じらしかった。


2005.9.28
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まるで登山のような村への進行の最中、唐突に天気が崩れ出した。
「山の天気が変わりやすい」と先人が言った言葉違わず
降り始めた雨は一分と経たない内に勢いを増していく。

「若いの、ほら、あそこに山小屋がありますよ。少し休みませんか?」

共に行動している訳でもないのに、当然のようにこちらに話しかける老人に、
敏行は渋々頷く。
どうせ雨宿りできる場所は他にないのだ。
泥水に足をとられながら、何とか小屋に転がり込んだ。

「あー、もうマジやってらんねぇ。なんで俺がこんな目に」
「まぁまぁ、若いの。こうして無事に三人小屋に入れたんですからねぇ、よかったよかった」

(何がよかっただ、ジジイ。・・・ん?三人?)

後ろを振り返れば黒いコートの男は息も切らせず小屋の隅で佇んでいる。
どう数えても四人のはずだが。

(チッ、耄碌(もうろく)してやがる)

胸中で吐き捨てて、小屋を見遣った。
それほど広くはない四角い小屋だ。
山道のちょっとした休憩所らしく、ベンチが壁に沿って並んでいるだけで他には何もない。
老人が一つしかないランプに火をつけると、室内は更に寂れた雰囲気を濃くした。
敏行はドアから離れたベンチの端に腰を下ろした。
老人夫婦は相変わらずニコニコした顔でドア側のベンチに座っている。
コートの男は佇んだまま座る気配はなかった。
と、ドアがゆっくりと開く。
誰かがまた雨宿りにでも来たのかと敏行はドアの方に顔をやって、目を見開いた。

「あん時のガキっ!?」
「うるさいなぁ。やっぱりいるし」
「やっぱり?」
「あ、なんでもないんです。あの、ごめんなさい。もう、リョーマくんっ!」

小屋に現れたのは公園で会った桜乃とリョーマだった。


2005.9.30
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たった一つのランプでは、そう広くもない室内と言えど明るく照らすことは出来ない。
隅には妙に薄暗い闇が溜まっている。
そのせいで室内は異常に寒く感じた。

「っそ、村まであと少しだっていうのによ」

敏行の悪態に気付いたリョーマが猫の瞳を思わせる目で彼を見遣った。

「天気なんてどーにも出来ないじゃん。
 そんなことにまで八つ当たりするのってどうかと思うけど」
「るせーなぁ。どーにも出来ないのなんて分かってんだよ・・・」

文句も実害がなければいい気の紛らわしだ。
誰だってそうすることだが、
敏行には必要以上にこの少年が自分にだけ突っかかってくるような気がしてならない。

(ってか実際突っかかってきてやがるし)

公園での出来事がまだ確執を与えてるのだとしたら、
そちらこそ心が狭いような気がするが。
そう考えて、敏行はニヤニヤとした人の悪い笑みを浮かべる。
ま、しょせんはガキなのだということだろう。

「何笑ってんだよ、気色悪いな。桜乃が起きるだろ」
「年上に向かってマジ生意気なクソガキ。
 っていうか、そいつが起きるのと笑ってるのは関係ないだろーがっ」

真っ当な意見を言っただけだが、
リョーマは「ハッ」と鼻で笑った後プイと横を向いて膝に乗せた桜乃の髪をすいた。
大体どう見ても中学生くらいの二人組なのに、カップルというところが頭にくるのだ。
と、リョーマが何かに気付いて敏行に顔を向けた。

「・・・ん?あんた今、村って言った?」
「ああ?」
「ふーん、村ねぇ。あんたそこに何しに行くの?」
「・・・親戚のジジイの見舞いだよ」

普段の彼なら素直に答えるのもかなり癪に障るものがあっただろうが、
なぜかこの時なんの疑問も浮かべず答えが口をついていた。
まだ、敏行はリョーマの左目がささやかだが色を変えていることに気付かない。
突然リョーマは声を立てて笑い出した。
その声に桜乃もぽやんとした顔で目を覚ます。
途端に敏行の顔が不機嫌なものに戻ってゆく。

「んだよ。なんかおかしいかよ」
「ああ、いや別に。ただ、そんな口実だったんだと思って」
「?」
「こっちの話。で?だからあんた余計に機嫌悪かったんだ。
 でも、ダメだな、もう今更か。今までの分も成長しちゃってるから」

さっぱり意味が分からない。
リョーマは一体何が言いたいのか。
ふと、敏行はリョーマがこちらを見る直線状にコートの男がいることに気付いた。
男は未だに何も言わず、座ってすらいない。

「・・・でもあそこまでいっちゃったのはリョーマくんが挑発したりするからだと思うけど」
「桜乃、だからどっちにしろ今更だって。あっちもきっと楽しみにしてるだろうし」
「さっきからお前ら何言って・・・」

「そこのお方、そのくらいにしておいてもらえませんかね」

顔に張り付いたような人のよさそうな笑みのまま、老人夫婦の夫がやんわりと口を挟んだ。

「ほうら、もう雨も止んだ様ですし」

外へ顔を向ける老人につられて窓を見れば、
雨は確かに勢いを殺し、今ではポツリポツリと雫を垂らすだけになっていた。
しかし、すっかり暗くなっている。
だが、敏行はこんなところで一晩明かすなどとても考えられない。
場所もそうだが、メンツが気に食わない。
だったら多少無理をしてでも村へ辿り着いた方がマシだった。
腰を上げて戸口へ向かうと案の定リョーマに声をかけられる。

「どこ行くのさ。今日は大人しくここで一晩明かす方が懸命だと思うけど」
「冗談じぇねぇんだよ。こんなとこにいられるかっ!」

声を荒げて吐き捨てると、敏行は勢いよく戸を開けて外に飛び出した。
パタパタとした足音が遠ざかると、何の音も立てずコートの男がそれに続く。
意思も何も感じさせないぬめりとした動きだった。
そして老人夫婦も「よいしょ」と腰を上げてそれに続く。
それらを全て見送って、リョーマは「あーあ」と息をついた。

「だから行かない方がいいって言ったのに・・・・・」

淡々した中にどこか笑いを含んだ声音で、リョーマはそう呟いた。


2005.10.6
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都会育ちの自分にとって、
暗い夜道というのがこれ程視野の利かないものだとは想像出来なかった。
歩いても歩いても目印になるようなものもなく、時間の感覚も危うくなる。
村は近いはずだった。
なのに未だにたどり着けずにいる。・・・おかしい。
焦燥に駆られる中、自分の乱れた呼吸だけが耳についた。
かと言って飛び出してきた手前
今更小屋に戻るなどという選択肢を増やすわけにはいかない。
足はいつの間にか小走りに、そしていつしか本気で走っていた。

「ったく、だから何で俺がこんな目にあってんだよ。
 あーもう、村に着いたらぜってージジイに文句言ってやる」

いや、言うだけじゃなく一回くらい殴るのもいいかもしれない。
浮かんだ考えに下卑た笑いを浮かべながら、
どれだけ進んだか知るために背後を振り返った。
コートの男の姿が見えた。
彼は多少舗装されているとはいえ、山道をなんの感慨もみせずに淡々と歩いている。

(あれ?なんかおかしくないか?)

男が羽織っているコートは『黒の』コートなのだ。
こんな闇の濃い森でこんなにもくっきりと見えるわけがない。

(おいおい、くっきりどころじゃねぇ)

周囲の景色が塗りつぶしたような闇色に覆われるのとは対照に、
男の姿は浮き上がっていた。
敏行は脱兎のごとく走り出す。
頭の中で「冗談じゃない冗談じゃない」と呪文のように繰り返して
現状を否定するしかなかった。
だが、この状況は変化しようもない。

「んなんだよ、コレはっ!!?」

足を何度も何度も投げ出しているのに、進まない。
同じところに留まったまま、地面だけ後退する、
ジムのウォーキングマシンに乗っているみたいだ。
男の姿が段々と近づく。
「追いつかれる」と思った刹那、前方に光が差した。
見れば、小屋で一緒だった老夫婦が提灯を片手においでと手招きしていた。

「た、助かった・・・」
「おや、災難でしたな若いの。でも、ここにいればもう大丈夫ですよ」

状況に対して老夫婦の穏やかな顔はとても奇妙に写る。

「でも、どうして俺より先に・・・・」
「よう、ここまできなさって」
「本当ですよ、よくきなさいました」

張り付いた笑顔のまま、夫婦は「よかった」を繰り返す。
一体何がだと言いかけて、はたと足元に視線をやる。
敏行の背筋に冷たいものが走った。

「おぅや、どうなさいましたかな」
「ひっ」

悲鳴が漏れたことにも気付かず、敏行の視線は夫婦の足元に釘付けだった。
提灯の明かりに照らされてゆらゆらと揺れるその影は・・・

「おやおや、いかんいかん。
 こういうことは不慣れなもんで、
 わしらのようなものが使う提灯の明かりでは姿が誤魔化せなんだか」

幼い子供が悪戯を見破られて観念した時のような、
実に邪気のない声音の老夫婦の影は人の形をしていなかった。
頭部と思われる天辺からはにょきっと鋭い角が飛び出し、頭部自体は不自然に長い。
胴から伸びた腕の先は五本の指ではなく三本の伸びた爪。
歪(いびつ)な影が二つ、そっくりに並んでいる。

「いかんねぇ、おまいさん」
「ああ、駄目だねぇ。おいしそうな肉を前にするとどうも」
「なん・・なんだよ・・・、なんなんだよっ」
「おまいさんはどこにするね?」
「わしはやっぱり腕だねぇ」
「じゃあ、わたしは足を貰いましょう」
「う・わあああああ」

次の瞬間、老夫婦の姿形が変化した。
影そっくりの輪郭に、紅葉色の肌、顔には巨大な一つの目と・・・・
そして巨大な口が大きく開き、男に襲い掛かる。

「やっと、正体を現した」

少女の凛とした、涼やかな声が禍々しい空気を断ち切った。
鬼と化した老夫婦の動きが止まる。
次いで、老婦人に化けていた方の鬼が消えていた。

「一匹上がり。つってもこっちは雑魚だけど」
「リョーマくん、いきなりはちょっと・・・」

鬼が現れるような空間には二人の子供の姿は場違いな気がした。
それでも受け入れてしまえたのは、今の光景があったからかもしれない。
あっさりとリョーマの手が鬼の頭部を砕いたように見えた。

「お前ら・・・」
「バーカ。だから警告してやったのに」
「なにをっ」
「言ったじゃん『余計なモノを引き寄せる』って。
 つっても、警告した時点で罠は張られてたみたいだけど」
「罠?」
「あなたがここに呼ばれたのも、全てあなたを食べる為に彼らが張った罠だったんです」
「にしても、呼び寄せる理由が滑稽だけど。あんなん騙される方もされる方だよ」
「だ、だけど、親父もお袋も行けって」
「大方暗示かなんかじゃん」

軽く肩を竦めるリョーマに反論は浮かばなかった。
「行ってこい」をテープのようにただ繰り返す両親の姿が浮かんだからだ。

「なんで俺が?人間は他にもいるだろうがよ!
 俺じゃなくたってそこら辺のガキでいいじゃねえか!」
「それが理由さ。・・・また大きくなった」
「何を言ってるんだよ」
「お前ら、さっきから・・・邪魔をするなぁぁぁぁっ!」

余計な事まで喋りそうになったリョーマ目掛けて、激昂した鬼が爪を振り上げた。
が、振り下ろした爪が捉えたものは、ひらひらと舞う桜の花びらだった。

「消えた・・・」

敏行は呆気にとられたまま呆然と呟く。

「んなわけないじゃん」
「私は桜の鱗。存在を捕らえることは出来ない」
「そして俺たちは二人で一つの存在。何者も別つことは出来ない」

朗々と唱えられた言葉は白昼夢の中のように耳に心地よく響いた。
二人はそっと両手を握り締める。
握り締めた手と手が混ざり合うような錯覚に襲われた。
互いを見つめる鏡のように合わせた面の右目と左目が眩い光を放ちだした。

「「私達は、俺たちは唯一無二の存在」」

力のある言葉が、空間に放たれた。


2005.10.9
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次の瞬間、桜乃の体が消えていた。
いや、正確に言えば消えたのではない。
桜の花弁となって、散ったのだ。
長い三つ編みの先から闇に解けるように桜乃という形が散っていった。
敏行は呆然とその光景を見るしかない。
一人残ったリョーマが悠然と鬼に立ちはだかる。

「貴様ら!コケにしおって、許さん」
「やってみなよ」

突進する鬼の視界を花弁が舞った。

「な、なんだ。見えん」

視界を遮るだけだった花弁が、徐々に鬼に絡みつく。
拘束する鎖のようだった。
それが、ぐっと鬼を締め付ける。

「ぐあああああ」

鬼の苦悶の叫びが空間を振るわせた。
敏行はそれだけで足が震えてしまう。
が、リョーマは毅然と鬼へ走りこんだ。
手を口元にかざす。
ぐにゃっと手先の空間が変形したと思ったときには
人間の手だったものが異形の爪へと変容している。
耳も丸かったそれではなく先が尖がった形に変わっていた。
にいっと口元に笑みを浮かべたリョーマは鬼へと爪を振るった。

「ぎゃあああ」

桜の花弁が散って、鬼は砂のように崩れて消えていった。

「まだまだだね」

消えかけの余韻を残した空間にリョーマはつまらなさそうに、手向けの言葉を贈る。

「お、お前、何なんだ!何者なんだよ。まさか俺も殺すのか?
 や、やめろ、消えろ、消えちまえっ」

叫んだ刹那、いつの間にか背後に迫っていた黒いコートの男が敏行に襲い掛かる。
人間の形だったもが真っ黒いだけの塊になって敏行を飲み込もうと動き出した。
腰が抜けたせいで立つことも出来ずあがく敏行の足を黒い塊が捕らえた。
そのままずるずると引きずってゆく。

「た、助けてくれ」
「それが何か教えてあげようか?」

必死で塊から離れようとする敏行を見下ろして、リョーマはポツリと零した。

「あんたの、影だよ。卑屈なことばっか言って汚された空気、あんたの堕気の塊さ。
 鬼はそれを見てあんたを獲物に決めた。
 堕気を溜め込んだあんたがさぞかしおいしそうにみえたんだろうね。
 俺だったらごめんだけど。だから忠告してあげたんじゃん」
「俺の・・・影・・・」
「そ、あんたが招いた結果だよ。自業自得だよね」
「た、助けてくれ」
「あのねー、それって都合よす・・・」

「リョーマくん、助けてあげようよ」

「桜乃・・・」

リョーマの横で訴えるように花弁が収束され、上半身だけ桜乃の形を作った。
見ているだけのリョーマに懇願する桜乃に、リョーマは嘆息する。

「そうだよね、桜乃は俺の善意だもんね。わかったよ。
 桜乃が言うならしょうがない。本当はしたくないんだけどね」

思いの他穏やかな顔でリョーマは苦笑すると、塊へ向けて爪を振るった。
塊が風に煽られて男から離れる。
が、実態のない塊はまた男に向かって収束し始める。

「ったく、きりがないし」

桜の花弁が塊を覆い、小さく締め付けていった。
黒色が凝縮されて更に濃密な闇色になり、塊が手のひらくらいになったとき、
リョーマが両手で掴み、口の中に放り込んだ。

「まっず」

思いっきり顔を顰めて呻いたリョーマの隣で、少女の形に戻った桜乃が小さく笑った。

「助かった・・・」

呆然と敏行が呟くと、二人は向かい合わせの金色の瞳で敏行を見た。

「今回はね。でもあんたがあんたでいる限りこんなことはいつでも起きるよ。
 ま、せいぜい堕気を溜めないように頑張って」

鋭い瞳でリョーマは警告するとすうっと闇に解けてゆく。
桜乃もそれに続きながらペコッと頭を下げた。
やがて、闇は晴れ、なんでもない山の風景の中に敏行は座り込んでいた。


あの後、村を探して歩き回った末敏行が見つけたものは、
とっくに廃墟となって打ち捨てられた村だった。
リョーマが言ったように、初めから仕組まれていたのだろう。
親戚なんていないし、両親に問いただせば二人とも覚えていなかった。

なんとなくそれ以来なんでも自分本位で考えるのはやめた。
かっとなって怒鳴りたくなるときはあのおかしな二人の姿が敏行を止めるのだった。
助けてくれたからではない。
なんとなく本能でわかる。
彼らに再び会うことがないように、もう二度と、あちらの世界に足を踏み込まないように、
人間はいろんなことをわきまえて生きていかなければいけないのだ。


2005.10.17
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