「んあっ!」

力のこもった掛け声がコートに響く。
スパンッというボールを打つ音がとても心地よかった。
それを無くしたのはいったいいつの頃からなんだろう・・・?
特訓の終わったコート端のベンチで、ぼんやりとそんなことが頭を掠めていった。





あの日、置き忘れたもの








「よっ、相変わらず強えーな」

「完敗だ」と掛けられた声にタオルの下から顔を上げれば、
練習に付き合ってくれた先輩が笑いながらペットボトルを差し出してきた。
小さく礼を述べながら越前リョーマは受け取ると、一気に喉を潤した。
朝早くからの練習で水分を体中が要求している。
でも・・・

「さすがのお前も、何時間もぶっ続けで練習させられたんじゃ疲れるってか」
「別に、疲れてなんかいないけど」
「どーかな。そのわりにゃ、浮かない顔だぜ」

ニヤリと微笑む彼に、リョーマは涼しい顔を崩さなかった。
そんなリョーマを見て、先輩である彼は自嘲気味に笑む。

「なんつってな。そもそもお前に不満なんかあるわきゃないか。
 中学だっけ?卒業と同時に才能を認められて
 このアメリカでプロの世界入ってきたような奴だもんな」

なにも言わずに、リョーマは目線だけ彼に向ける。

「ずーっとここにいるくせにいまいち成果の出ない俺とは大違いだぜ」

眉を下げて彼は空を見上げていた。

「俺は・・・」

人懐っこく、笑顔が似合う彼にしては珍しい。
年の違いを気にする方ではないにしろ、
情けなく後輩に愚痴る姿は付き合いの短いリョーマから見てもらしくないような気がした。
慰めの言葉はうまく出てこない。
開きかけた口を、しかし、彼は陽気な声で遮った。

「なーんて、あんまりにお前が順調だからちょっと言ってみただけだっつーの!」

一瞬の曇った表情を吹き飛ばすような笑い声にリョーマもふっと息を抜いた。
やっぱりそっちの方が彼には似合っている。
彼のこうしたところはどこか中学時代の先輩を思い出させた。

「練習、もうちょっと付き合ってくださいよ」
「ああ、いいぜ」

後にも先にも、自分達にはテニスしかないのだから。







でも・・・何かが引っかかってしょうがないんだ・・・






先輩が言っていたように、自分の周りは驚くほど順調だ。
中学での実績を認められ、卒業と同時にアメリカに留学。
そして、プロのテニスプレーヤーとしての特訓を受けての充実した日々。
なんの問題もない。
2ヶ月後にはデビュー戦も控えて、最近はますます気合も入ってきたところだと言うのに・・・
何か、順調すぎる。
喉を潤しても、乾ききっている感じがするのはなぜだろう。
なにか、なにか見落としているような気がしてならない。
でも、いったいなにを?
ここ数週間湧き上がる疑問を無理やり頭から振り落として、ベットに倒れこんだ。





チュンチュン
朝の爽やかな音がリョーマの眠りを覚ませた。
柔らかい風が頬を撫ぜる。
そっと睫毛を震わせてリョーマの瞳がゆっくり開いてゆく。

「・・・・・・」

ぼんやりした意識の中、「もう少し寝ようか」と閉じかかった目に、向かいの時計が映る、
その瞬間、彼は飛び起きた。

「やばっ!」

気づけば家を出なければいけない予定の時間がとっくに過ぎていた。
先週も遅刻についてこってり絞られたというのに、こんな短時間で同じことを繰り返しては、
今度はどんな罰が下るか分からない。
とにかく電話を手に取りすぐさまコーチにかけた。

「もしもし、リョーマっす。今向かってるところなんすけど、
 子供が生まれそうな妊婦につきそったり迷い猫がいたりあと道を訪ねられていたりして
 そんな感じで遅れます。
 じゃあ」

受話器の向こうでわめき散らす声が聞こえたが、リョーマは容赦なく回線を切った。
服を着替えて、仕度も早々に部屋を出ると、早足でマンションの階段を下りて、
目の前の道へ飛び出した。
刹那・・・

腰の辺りに軽い衝撃。

「うひゃ」

小さな悲鳴とともになにかがひっくり返っていた。
そのなにかは驚きに目をパチパチさせて空を見上げている。

「あっと、わるい」

侘びを述べて手を貸そうとして、
リョーマはぶつかったモノが小さな女の子だと初めて気が付いた。
慌てていた為に視界に入っていなかったのだ。
なにが起こったのかわからない様子できょとんとしているその子を抱えあげる。
浮遊感に驚いているその子にリョーマはなるべく威圧感を与えないように笑顔を浮かべた。
こういう状況での、というか子供に対しての対応がリョーマは苦手だ。
表情がないクールな顔がたまに幼い子供にとってプレッシャーになることを分かっていた。
しかし、その子は一瞬「あっ」と声を上げた後まん丸の大きな目でリョーマを見つめ、
勢いよく頭を下げてきた。
拍子にバランスが崩れて落としそうになるのをなんとか堪えて地面に下ろす。

「こっちこそ、ごめんなしゃい」
「・・・っ」

少しだけ舌っ足らずな声でペコリと下ろした頭に、リョーマは一瞬言葉が詰まる。

妙な規視感。

下ろした頭に習って軌道を描くのは長い三つ編みだった。
硬直したリョーマを訝しむその子の顔を覗き込む。
大きな瞳、不安そうに揺れるその仕種。
彼女に似ている・・・・・。
というより瓜二つだ。

「お兄ちゃん、どうしたの・・・?」
「・・・あ、いや・・・」

言葉が浮かばずに、そう返すので精一杯だった。
声まで似ているような気さえしてくる。

「ぶつかってごめんなしゃい」
「別に、俺もよく見てなかったから」

リョーマは自分の中に広がった感情に、眉根を寄せながら、
その子に視線を合わせるためにしゃがむ。

「なにしてるの?」

見れば見るほど似ている、そう思いながらそっと問いかける。

「う、わかんにゃい・・・」
「見たとこ一人みたいだけど親は?」
「?」

小首を傾げてその子はリョーマを見るばかりだ。

「・・・名前は?」

口の中に広がる苦い感情。
少女は答えない。
益々皴を刻むリョーマのこめかみへ、そっと少女の手が上がり

「うわあっ!」

ギュッと押さえられた。
いきなりの事にリョーマは面食らう。
しかし、少女はえへへと微笑んで見上げてきた。

「お兄ちゃんおしわがいっぱい〜。めーだよ」

どうやら親切心を働かせたつもりらしい。

「・・・ったく、人のこめかみの皴を勝手に伸ばさない・・・」

嬉しそうな顔に一気に毒気が抜けて軽く鼻を突付いた。
構ってもらえたと思ったらしい少女はその手にじゃれ付く。
知らない人間に、こんなに無防備で大丈夫なのかと逆に心配になってきてしまう。

「そんなところも似てる」

でも、そんな冗談みたいなことあるはずはない。
浮かびかけたおとぎ話のような想像に自分で笑ってリョーマは立ち上がった。

「交番までは連れてってやるか」
「う?」
「とりあえずお父さんお母さんが迎えに来てくれるとこに連れてってあげるから。
 一緒に行く?」
「うん!」

にっこりと満面の笑みで少女はリョーマに紅葉のような小さな手を差し出した。
どうやら繋げ、ということらしい。
「はいはい」と微笑みながらその手を取った。

(あったかい)

子供の体温が高いことを改めて知ったような、初めて知ったような。
嬉しそうな少女を見ていると自分まで楽しくなってくる気がして、自分の感情に驚いた。

少女の歩幅に合わせていつも歩いている街道を進んでいく。
少しスピードを落としただけで視界は今までとはまた違った景色を写していた。
それは、まあ、少女のおかげなのだけれど。

二、三歩歩く度に何かを発見し、
そして一度発見してしまうとそれに夢中になって回りが見えなくなるらしい。
一度目は散歩をしていた大型犬に突っ込んでいき、顔中を嘗められ、
ギュ〜っと抱きついて離れなかった。
少女のことを気に入った飼い主に話しかけられているうちに、
当の彼女は二軒先の庭に置かれたバイクへいつの間にか移動していた。
興味津々に見つめる少女に、バイクの持ち主が得意気になって自慢話をしていて
(リョーマもなぜかその青年と仲良くなったりしたが)、
とにかくこんな調子で進むのだから一行に先に進めないのだ。
親の苦労が伺える。
これなら迷子になるのも当然というものだ。
肺の底から搾り出した息を深々と吐いていると、
また「あっ」と声を上げて少女は何かに突進していく。

「はいはい、今度はなんですか?」

離れた手を額に当てて、でもすでに慣れてしまったから不思議だ。
しかも、自分はどこかこの状況が楽しくてたまらないのだ。
渇きがいつの間にか癒えたような・・・・・。
道の端にしゃがみ込んだ少女にゆっくりと近付いた。

「今度は何を発見したの?」

上からのぞき込むと、少女はにっこりと笑って立ち上がりリョーマを見上げた。
顔の前に掲げた両手の中に何かをそっと握り締め、それをリョーマの鼻面に押しつける。

「?なに?」

首を傾げながら、視線を合わせるためにしゃがむ。
すると種明かしをする者特有のこそばゆい仕種ではにかみながら、両手を開いてみせる。
そこには、淡い桃色の花が隠れていた。
懐かしいその形、匂い、存在に、リョーマは息が詰まる。
込み上げてくる感情が一体なんなのかは分からない。
泣きたいような、いてもたってもいられないような。

「きれーでしょ?」

得意気に少女は微笑む。

「ああ、そうだね」

少女の手の中で、儚いモノの象徴のようなそれは、よく知っているものだった。

「綺麗だね。なんてゆうか知ってる?」
「ううん、知らにゃいの。見たことないの」

ぶんぶん首を振る少女の頭をそっと撫でて懐かしいその言葉を口に乗せた。

「その花はね、”桜”って言うんだ」

きょとんとした顔で見つめてくる。
三つ編みが動きに合わせて揺れる。

「さくら?なまえ、さくら、さくらー」

少女は何度も口にする。

「ああ、桜だよ」

ふっと少女は口を噤んだ。
視線を桜から少女に戻すと、少女は、子供には不釣合いな静かな微笑みを浮かべていた。
違和感に戸惑う。

「あげる」
「え?」

そっとリョーマの手を取り、その上に桜を乗せた。
半透明に透けるその花弁を、この時はなんの不思議にも感じなかったのだ。
えへへ、と少女は照れたように微笑んでみせる。

「だいじなものなんでしょ?」
「え?」
「たいせつなものは忘れちゃメなんだよ」
「・・・・・・・・」

はっと、リョーマは急に大人びた少女を見つめた。

「じゃあね、リョーマくん」
「りゅうざ・・・・」

伸ばした手は中途半端に宙をさ迷い、行き場を無くす。
走り出した少女は通りの向こうへとふわりと消えてしまった。
後にはただ立ち尽くすリョーマが一人残される。
手の中に包み込んだはずの花弁もいつの間にか消えていた。

幻?

しかし、桜の香りが鼻孔をくすぐる。

「俺は・・・・・・」

自らの手を見つめて、ギュッと握り締めた。

「あら、さっきの、えっと、リョーマだったわよね?どうしたの?」

少女がじゃれていた大型犬を連れた女性が、リョーマへ心配そうに声をかける。

「俺、行かなきゃ」
「?どこへ?」
「ようやく分かったんだ。足りなかったもの、掴んでくる」
「え?ちょっと、リョーマ?」

一方的に告げて突然走り出したリョーマを唖然として女性は見送った。
犬がリョーマを応援するように吠える。
背中でその声援を受けながらリョーマは走り出して止まらない自分を自覚した。
思いは一点を目指して疾走する。


やっと分かった。

やっと分かったんだ。

この手に掴みたいもの。

俺を満たすもの。




「竜崎、待っててよね」



自分を構成している大切な一部を、俺は日本に置いてきたみたいだ。
テニスだけじゃ埋まらない。
そんな気持ちをあんたは気づかせたんだから

「責任は、取ってもらわなきゃね」

竜崎、あんたも同じ気持ちでいますように。





end






あとがき。

すみません(汗)設定が分かりにくいですよね??
すぐ話に入っていけないって方がいたら申し訳ないです。
これは中学を卒業して、リョーマがアメリカへ留学したところから始まってます。
たぶん、日本を出る時はあっさり分かれたんじゃないかな〜?
と思って、私も後からジワジワ思い出すタイプなので、書いてみました。
チビ桜乃とかファンタジー入ってますが、受け入れてもらえましたか!?
彼女の正体についてはハッキリとは申しません。
読まれた方の解釈にまかせます〜〜
ここまで読んで頂いてありがとうございましたっ!

下北沢じゅん。