自分の父親の後ろからおずおずと前に出てこようとしている少女を見ようとして、彼は瞬間的にヤバいと悟った。
この少女は自分にとってヤバいと。 しかし彼の血がだした警告は、彼の心に芽生えた少女の顔を見たいという欲求を止めることは出来なかった。 数秒間の沈黙の後、彼は彼女と目を合わす。 その一瞬で、彼はまた悟る。 ――――――彼女が俺の主だ。 「お帰りなさいませお嬢様。」 いつの間にか彼は、彼女の手を取って、その手の甲に口付けていた。 再び数秒間の沈黙ができる。 「わああああ?!」 彼 ― 心ノ介 ― はごく近くで聞こえてきたずぱーんというものすごい音で我に返り、少女から素早く飛び退(すさ)った。 (お・・・、俺はなんてことを!) 「お前は何をやっとる。」 少女から10m程離れたところで自分がしたことを自覚しおろおろしている心ノ介を、彼の父が愛用のハリセンで容赦なく叩いた。 むろん、さっき心ノ介の後頭部にヒットしたのもこのハリセンだ。 「お前のせいでお嬢様が日本は怖いところだと誤解なさってしまわれたらどうするつもりなんだ。」 心ノ介は静かな声で諭す様に言われたことに反発したかったが、口を何度も閉じたり開けたりするだけで、結局何も言わなかった。 どうやら、ついさっき自分がした行動を思い返すと言葉が喉に引っ掛かってしまうらしい。 「大体お前はな、普段から執事としての心構えが・・・」 心ノ介が葛藤していることを気にもかけず、執事の先輩でもある彼の父親はそのままの流れでいつもの説教コースにはいってしまう。 父親の、執事としての言葉を心ノ介は聞き流す。 彼には、後できついお仕置きをくらうことになったとしても見ておきたい人物がいた。 ―――少女だ。 心ノ介は今日から自分達の主になった少女の様子を、不躾にならないよう気を遣いつつ窺った。 少女 ― 紗依という ― は、彼が口付けた手の甲にもう片方の手の平を乗せたまま、視線をさ迷わせている。 (この子が俺の『お嬢様』・・・。) 心ノ介達の方をちらと見ては慌てて視線を外す姿はどうひいきしようともお嬢様とは言えないものだったが、彼は、血ではなく彼自身の心でいつの間にか紗依を自分の主――お嬢様だと認めていた。 (顔を朱に染めながらもしゃんと立っている姿は、可愛らしいけど綺麗だ。) 誰かに聞かれたら赤面してしまうだろうことをそっと心の中で呟く。 彼はこの日思ったことを、生涯忘れなかった。 心ノ介、執事です。(だからなんだ)
意識は急速に目覚めた。 (・・・なんだ、夢だったのか。) 無意識のうちに思うが、夢の内容はさっぱり思い出せなかった。 さっきまで見てたはずなんだけど。 そう考えてしまうと、忘れてしまった夢の内容を知りたくなる。 が、一方で、別に思い出さなくてもいいやとも思う。 自分が見ていた夢は、多分、いや十中八九悪夢だ。 (なんだか嫌な気分だ。) 体が、特に胸あたりがモヤモヤして、許されるなら今すぐ叫びだしたいくらい不快だ。 (紗依・・・・・・。) 心に彼女の名が浮かんだ途端、目が勝手に動きだす。 彼女ならこの不快感を取り除いてくれると、なんの根拠もないのに確信していたのかもしれない。 「情けねぇなぁ・・・。」 小さく呟きながら、静まり返っている教室の中から彼女の姿を発見する。 不思議なことに、彼女は俺の方を見て何か訴えていた。 まさか体調悪いことに気付いたのか、と思いかけて、消す。 俺から彼女までの距離では相手の顔色まで見れないし、第一真面目な彼女が授業中に人間観察なんてするはずない。 (じゃあなんだ?) 彼女が伝えたい事を知りたい。 俺の脳は、それですっかり埋め尽くされてしまう。 元々聞いてなかった授業のことなんて少しも考えず、俺は彼女の口の動きだけに集中する。 (す・・・。す、き・・・?あーもう!動くなよそこの丸刈り!) 「むーらーさーめ・・・?」 背後から怒りをこめた声が聞こえたのは、もう少しで紗依のメッセージが分かるという、劇的な瞬間の一歩前あたりのことだった。 「お前は授業中に一体何をやってるんだ?ええ?」 スズキセンセイガチカクニ。 先生のげんこつを頭に受けながら、俺は紗依がなにを伝えたかったのかを身をもって知った。 2006/07/20
僕がいることに気付いた彼女が、僕に近付いてきてくれる。 その手の中には、花束。 色とりどりの花がたくさん束ねてあるそれは、さっきまで近くにいた誰かが彼女にあげたものだろう。 束にしてある花々はひとつひとつを取ってみても可愛いものが多く、またその色はどれも彼女にぴったりだった。 そんな花束を贈ったかもしれない自分の知り合い6人(ちなみに心は省いておいた)を、心の中で恨む。 けど彼女にこんな顔を見られたくないので、女の人達に可愛いと評される笑みを無理矢理浮かべた。 気持ちを押さえつけながら笑うということはすごく精神力がいるけど、それでも僕は笑顔で彼女を待った。 もちろん、今日も抱きつく気満々だ。 しかし、今日は僕よりも早く彼女が行動を起こした。 「用ちゃん大丈夫?」 「え?」 近付くなり手を握り僕の顔を覗きこんできた彼女の顔には、はっきりと心配だと書いてあった。 「え、うん?大丈夫だよお姉ちゃん。」 ぎくりとしたくせに、僕の口はそんなことものともせず、何変なこと言ってるのというニュアンスを込めた言葉を吐き出した。 すると、とたんに彼女の顔が難しいものへと変化する。 彼女がこういう顔をするときは、鋭い指摘が飛び出してきそうで怖い。 「本当に大丈夫なの?」 「うん!風邪引いてたらお姉ちゃんの近くに寄ったりしないから大丈夫だよ。」 僕の茶化したような発言に、紗依が首をちょっと傾げながら苦笑する。 納得したような、していないような、曖昧な表情だ。 「あのねお姉ちゃん。本当に僕は大丈夫なんだよ。」 自分でも何が大丈夫なのか分からないまま、彼女の心配を消したい一心で語り始める。 予想通りどうしてと言いたげな眼差しを向けられるが、その瞬間には僕の脳は答えをはじき出していた。 「僕のほっぺには福袋があるんだよ〜。」 両手の人差し指で頬に触れながら、おどけた様にそう言えば、一瞬にして紗依の顔に笑みが戻る。 玩具を見つけた子供のような目で見つめながら「本当に?」と訊ねてきた彼女に「僕嘘付かないよ」と返せば、また苦笑された。 「ね、触ってみてもいい?」 言いながら僕の頬へとそっと伸ばされる彼女の腕を視界の端に捕らえた僕は、自然に笑いながら答えた。 「お姉ちゃんがぎゅってしてくれるならいいよ。」 2007/02/06
考え事をしていたら、誰かにいきなり手を握られた。 驚いて動かした視線の先には、薄緑色の髪。 用ちゃんだ。 「ぼーっとしてたらどっかの誰かに誘拐されちゃうよ、お姉ちゃん。」 だから僕が守ってあげるねとさらりと言ってのけて、用ちゃんが太陽のような笑みを浮かべた。 その笑みがなんだかよく分からないけど心に染みて、思わず泣きそうになってしまった私はぐっと唇に力を込めた。 ――― どうかこの人が笑って生きられますよう。 2007/04/30
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